執政官とは? わかりやすく解説

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しっせい‐かん〔‐クワン〕【執政官】

読み方:しっせいかん

政治執る役人

コンスル


執政官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 16:07 UTC 版)

執政官(しっせいかん、ラテン語: consulコンスル)は、古代ローマでの政務官のひとつ。都市ローマの長であり、共和政ローマの形式上の元首に当たる。訳語として執政官のほかに統領を用いることもある。古代ローマでは、以下に例示するように、正規執政官の名を書くことで、その年を表した。


注釈

  1. ^ ラテン語の consules (consulの複数形) は「共に飛び跳ねる者、踊る者」を意味する。
  2. ^ と言っても設立当初からプブリコラが3度も連続で務めている。
  3. ^ Praetor、一般にローマ史に書かれる「法務官」はこの時代より後の時代のものである。詳細はプラエトルを参照。

出典

  1. ^ a b c モムゼン, p.230.
  2. ^ モムゼン, p.233.
  3. ^ MRR1, p. 452.
  4. ^ a b モムゼン, p.231.
  5. ^ リウィウス, 2.6.
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  10. ^ リウィウス, 3.9.
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  12. ^ リウィウス, 1.60.
  13. ^ ハリカルナッソスのディオニュシオス, 『ローマ古代誌』, 4.76.1、4.84.5
  14. ^ リウィウス, 2.2.
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  17. ^ リウィウス, 2.23、2.29など.
  18. ^ リウィウス, 4.2.
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  20. ^ リウィウス, 4.6.
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「執政官」の続きの解説一覧

執政官(紀元前464年)

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アウルス・ポストゥミウス・アルブス・レギッレンシス (紀元前464年の執政官)」の記事における「執政官(紀元前464年)」の解説

紀元前464年に執政官に就任同僚執政官はスプリウス・フリウス・メドゥッリヌス・フススであったこの頃ローマではアエクイとの戦い続いており、この年ウォルスキ族反乱加わった先年ローマはウォルスキが支配していたアンティウム現在のアンツィオ)を陥落させて植民していたが、ウォルスキ系住民不穏な動きもあり、フススが対アエクイ担当となったティトゥス・リウィウスによれば、フススはアエクイ軍の全容を掴むまえに不用意に戦端開いて敗北し自身野営地撤退しそこで包囲されてしまった。この脅威ローマ本土にとっても深刻なものと考えられ元老院はレギッレンシスに全権与え必要なあらゆる手段講じて状況回復するよう命じた。レギッレンシスはラティウム同盟、ヘルニキおよび植民市アンティウムから緊急援軍要請してローマ領土防衛体制固め前年の執政官ティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥス戦場における軍の指揮権インペリウム)が与えられ、フススの救援向かった。これはプロコンスル前執政官)の最初任命となった。 アエクイとウォルスキは得意のゲリラ戦術出てローマ各地荒らしたため、レギッレンシスはそれに対応するため出陣しローマにはルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスが、プラエフェクトゥス・ウルビ(en首都長官)として残った一方、フススは包囲を破らんと出撃したものの、兄弟レガトゥス務めていたプブリウス・フリウスが深追いして戦死し、フスス自身負傷して再度包囲受けていた。バルバトゥスは同盟国からの支援部隊強化された軍を率いてアエクイ軍を背後から攻撃し、またフススの軍も最後の力を振り絞って挟撃しこれに勝利した。レギッレンシスもローマ領内逃げ込み略奪働いた敵兵掃討している。リウィウスはその信憑性疑問呈しながらも、ウァレリウス・アンティアス(en)の資料紹介しており、戦死したローマ人は5800人で、レギッレンシスが討ち取った敵兵2400人、バルバトゥスは4230人の敵兵戦死させたとしている。

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執政官(紀元前269年)

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クィントゥス・オグルニウス・ガッルス」の記事における「執政官(紀元前269年)」の解説

ガッルスのキャリア頂点は、紀元前269年執政官就任である。同僚執政官はガイウス・ファビウス・ピクトルであった。両執政官は南イタリア抵抗していたサムニウム人のロリウスに対処し、ブルティウムでの最後の抵抗鎮圧してイタリア南部制圧した。またピケニ人の反乱起こったが、この鎮圧翌年の執政官に委ねられた。ロームルスとレムス刻印されローマ最初銀貨鋳造始めた

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執政官(紀元前336年)

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カエソ・ドゥイリウス」の記事における「執政官(紀元前336年)」の解説

紀元前336年、ドゥイリウスは執政官に就任同僚執政官はルキウス・パピリウス・クラッススであったこの年主なできごとは、カレスen現在のカルヴィ・リゾルタ)を中心としたアウソニ族(en)がシディキニ族(en)と同盟してローマ反乱したことであったローマはアウソニとシディニキに勝利し敗走させた。 野戦での勝利後、クラッススとドゥイリウスは敵兵積極的に追撃しなかった。しかしながら元老院は、これまで度々ローマ敵対していたシディキニに嫌悪感抱いており、これを追撃しなかった両執政官に対して冷淡であったこのため元老院翌年の執政官で著名な将軍であるマルクス・ウァレリウス・コルウスカレス周辺での作戦担当させ(通常、各執政官の担当戦線くじ引き)、クラッススカレス包囲し陥落させた。

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執政官(紀元前329年)

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ガイウス・プラウティウス・デキアヌス」の記事における「執政官(紀元前329年)」の解説

紀元前329年執政官に就任同僚執政官はルキウス・アエミリウス・マメルキヌス・プリウェルナスであったガリア人南進しているとの噂が流れたため、両執政官は軍団の編成開始した。しかし、これは誤報であったため、ルキウス・アエミリウスはガイウス・プラウティウスの軍を合わせ、両執政官はプリウェルヌム(現在のプリヴェルノ)の攻略開始した。プリウェルヌムは陥落し、両執政官ともにローマ戻って凱旋式実施している。ルキウス・アエミリウスのアグノーメン添え名)であるプリウェルナスはこの勝利由来するもので、彼の子孫はこの名を名乗った。 プリウェルヌムの住民対す処置に関して議論元老院行われた際、ガイウス・プラウティウスは寛大な処置求めている

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執政官(紀元前302年)

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マルクス・アエミリウス・パウッルス (紀元前302年の執政官)」の記事における「執政官(紀元前302年)」の解説

パウッルスは紀元前302年に執政官に就任同僚執政官はマルクス・リウィウス・デンテルであったこの年、アエクイがローマ反乱した。しかし、両執政官は出征せず、ガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥス独裁官ディクタトル)としてアエクイとの戦い担当した同年、パウッルスはターラント湾遊弋し上陸してきた、スパルタ王クレオメネス2世末子アレウス1世叔父であるクレオニムス(en)とトゥリオイ(en近く対峙し、スパルタ軍を撤退させている。 同年、クレオニムスが指揮するギリシア艦隊イタリア沿岸航行しサレント半島のトゥリオイを占領した。執政官アエミリウスがこの敵に対応するために派遣され一度戦闘ギリシア軍撃破し、船に撤退させた、トゥリオイには以前市民戻り、平和が回復した。 — ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、 X, 2 但しリウィウスは、出征したのは独裁官ブルトゥスであり、クレオニムスはローマ軍衝突する前に船に撤退したとする説も紹介している。 また、同年ローマはウェスティニ(en)との間に平和条約締結している。

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執政官(紀元前331年)

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マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前331年の執政官)」の記事における「執政官(紀元前331年)」の解説

紀元前331年マルケッルスは執政官に就任同僚執政官はパトリキガイウス・ウァレリウス・ポティトゥスであったこの年多くローマ著名人病死し、その症状類似していた。一人女性奴隷女たちによる毒殺であると上級アエディリス訴え出たため調査が行われ、現場押さえられ女性数人が自らの毒をあおって死亡し、更に多数女性逮捕され170人前後が有罪となった。この事件物憑きによる凶兆考えられ、それを浄める釘打ち儀式のために独裁官ディクタトル)にグナエウス・クィンクティリウス・ウァルス、騎兵長官ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス任じられ儀式直ぐに辞職した

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執政官(紀元前314年)

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マルクス・ポエテリウス・リボ」の記事における「執政官(紀元前314年)」の解説

紀元前314年リボは執政官に就任同僚執政官はガイウス・スルピキウス・ロングスであった。両執政官は前年独裁官ディクタトルクィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌスから軍の指揮受け継ぎ反逆者占拠したソラ攻略した夜明けにはソラ占領され、両執政官は脱出出来なかったものの夜中虐殺から幸運に生き残った人々降伏受け入れた225人が囚人としてローマ移送された。彼らはローマからの入植者虐殺した責任者みなされた者たちであったその他の人々ローマ軍守備隊置かれソラ残された。囚人たちフォルム・ロマヌム鞭打たれた後に斬首された。 — ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、 IX, 24. その直後、両執政官は軍をアウソン族(en、アウルンキ族の一部族)に向け、12人のアウソン貴族ローマ加担したこともあり、アウソナ(現在のアウゾーニア)、ミントゥルノおよびウェスキア(en)を占領したその後、ルケリア(現在のルチェーラ)の住民ローマ駐屯兵をサムニウム引き渡したことを知りローマ軍アプリア侵攻最初の攻撃でルケリアを陥落させた。元老院ではルケリアの処置に関して長い議論なされたが、結局2,500人のローマ人植民させることとなった一方でカプア反乱準備されているとの噂が流れ、それに対処するためにガイウス・マエニウス独裁官任命された。 続いて二人の執政官が率いたローマ軍は、カンパニアサムニウム軍と野戦行いたくみな戦いで勝利を収めた。 そこでローマ軍の全戦列出現したため、サムニウム軍は戦闘継続できず、今はベネウェントゥム(現:ベネヴェント)と呼ばれているマルウェントゥムに逃げたものを除き全て殺される捕虜となった30,000人のサムニウム兵が戦死する捕虜となったと言われている。 — ティトゥス・リウィウスローマ建国史』、 IX, 27. この勝利により、ロングスのみがローマで凱旋式実施している。

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執政官(紀元前352年)

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プブリウス・ウァレリウス・プブリコラ (紀元前352年の執政官)」の記事における「執政官(紀元前352年)」の解説

紀元前352年プブリコラは執政官に就任同僚執政官はプレブス平民出身ガイウス・マルキウス・ルティルスであったリキニウス・セクスティウス法では執政官の一人プレブス就任することとなっていたが、直前2年間はプレブス執政官は選ばれておらず、両者の間に不和生じていた。両執政官は、パトリキプレブス融和を示すため、市民負債調査行った。この調査のために5人の委員選ばれ、非常に公正な調査行い債務者債権者共に満足する解決見た

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執政官(紀元前223年)

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プブリウス・フリウス・ピルス」の記事における「執政官(紀元前223年)」の解説

紀元前223年ピルスプレブス平民出身ガイウス・フラミニウスと共に、執政官に就任した紀元前225年勃発したガリア人反乱3年目入っていた。両執政官は北イタリアに軍を進めたが、彼らが出征する直ぐにローマ元老院フラミニウス解任する方法考えたフラミニウス紀元前232年護民官として元老院相談なく独断公共土地法を成立させていたために反発受けていた。 元老院は、フラミウスの後援者が不正を行ったために、前年執政官選挙無効であるとし、両執政官に対して召還求め手紙出した。しかし、インスブリ族(en)との戦闘の準備整っていたために、ピルス戦闘勝利した後に手紙開封したその後ピルス命令に従ってローマ帰還して執政官職を辞したが、フラミウスはこれを無視して作戦継続しローマ戻って凱旋式実施しその後辞任した。(凱旋式のファスティによれば、フラミウスの凱旋式2日後ピルス凱旋式実施している)

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執政官(紀元前337年)

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プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前337年の執政官)」の記事における「執政官(紀元前337年)」の解説

紀元前337年パエトゥスは執政官に就任同僚執政官はガイウス・スルピキウス・ロングスであった元老院は、ローマ同盟国であるアウルンキ族(en)がシディキニ族(en)と戦争となったため(シディキニ・アウルンキ戦争en)、両執政官に対してこれに介入するよう命令した。しかし、両者共に躊躇したため介入が遅れ、アウルンキはその首都アウルンカ(en)を放棄してスエッサ(現在のセッサ・アウルンカ)に逃げ込んだ。両執政官の不仲にいらだった元老院はガイウス・クラウディウス・レギッレンシスを独裁官ディクタトル)に任命した。しかし、その就任宗教的に不適切みなされ、レギッレンシスは直ぐに辞任した

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執政官(紀元前339年)

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ティベリウス・アエミリウス・マメルキヌス」の記事における「執政官(紀元前339年)」の解説

紀元前339年、マメルキヌスは執政官に就任同僚慮執政官はプレブスクィントゥス・プブリリウス・ピロであった。マメルキヌスはピロと共に、フェクトゥム平原戦いでラティウム同盟勝利したピロラティウム軍の降伏受け入れているときに、マメルキヌスはティブル(現在のティヴォリ)に支援されたペドゥム(en)、プラエネステ現在のパレストリーナ)、ウェリトゥラエ(現在のヴェッレトリ)、さらにはラヌウウィウムとアンティウム現在のアンツィオ)から派遣されてきた軍と戦った。 マメルキヌスは戦闘優位に進めたが、ペドゥムの占領には失敗したさらには同僚ピロに対して元老院凱旋式実施認めたことを知り、マメルキヌスは作戦中止してローマ戻り自身凱旋式実施求めた。しかし、ペドゥムを陥落させていなかったために元老院はこれを拒否した。するとマメルキヌスは元老院との話し合い中止し数年前ラティウムから獲得していたカンパニア土地分配が不公平であるとしてプレブスが不満を訴えていた事など、パトリキにとって極めて不都合な告発繰り返し同僚ピロプレブス出身のために妨害しなかった。一方元老院は執政官たちを黙らせるため、ラティウム反乱口実独裁官任命求めたが、指名持っていたマメルキヌスは同僚執政官のピロ独裁官任命したリウィウスによると、これは三つ重要な法案通過させるためであったその三つの法案(プブリリウス法)とは、 プレブス民会決議全てのローマ市民適応されるケントゥリア民会に諮られる法案を、元老院投票前承認しなければならない監察官ケンソル)の一人プレブスとする。 であった。 しかし、現代の研究でもこれが事実かどうか解釈割れている。これに疑問を呈するものは、執政官の一人独裁官となった場合独裁官外交・軍事専念し内政には関与しないはずで、内容紀元前287年ホルテンシウス法類似しており、リウィウスのような古代の歴史家が重複記載をしたのではないか考えている。しかし、ホルテンシウス法の方が、このプブリリウス法を再確認したものであるとする説もある。

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執政官(紀元前247年)

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ヌメリウス・ファビウス・ブテオ」の記事における「執政官(紀元前247年)」の解説

紀元前247年、ブテオは執政官に就任同僚執政官はルキウス・カエキリウス・メテッルスであったこの年は、第一次ポエニ戦争18年目であり、ブテオはシケリアにおけるカルタゴ最後拠点一つであるドレパナ(現在のトラパニ)の包囲引き継いだ。ブテオはカルタゴ占拠していたペリアス島を占領する計画立て一度成功した。しかし、カルタゴ軍司令官ハミルカルはこれを奪回しようと反撃した対するブテオはドレパナを攻撃しハミルカルはその防御のために街に戻らざるを得ず、ブテオはペリアス島の維持成功した。ブテオは島と海岸の間の海峡クレーン設置しローマ軍が海側から城壁接近することができるようにした。但し、この行動に関してポリュビオスは全く記述しておらず、実際に包囲戦紀元前241年まで継続している。

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執政官(紀元前283年)

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グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス・マクシムス」の記事における「執政官(紀元前283年)」の解説

紀元前283年、カルウィヌスは執政官に就任同僚執政官はプブリウス・コルネリウス・ドラベッラであった。執政官任期開始早々前年の執政官ルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテル法務官プラエトル)としてインペリウム軍事指揮権)を所有しガリア人(セネノス族と思われる)と戦ったアレティウムの戦い敗北戦死したマニウス・クリウス・デンタトゥス後任となり、ガリア人との交渉開始した加えて同僚執政官のドラベッラは、ローマ敗北後反乱したエトルリア対す作戦準備行った一方でカルウィヌス・マクシムスの役割不明である。おそらくはローマ留まりガリア侵攻してきた場合備えて防衛準備行っていたと想定される。 デンタトゥスがセネノス族に送った使者殺害されたとの報告を受けると、ローマはセネノス族に軍を向け、これに勝利した続いては彼らの土地侵攻し略奪行ったポリュビオスによると、ガリア人ボイイ族はセネノス族と同じ運命陥ることを恐れエトルリア同盟してローマ侵攻しローマの北70キロメートルのウァディモ湖まで迫ったアッピアノスによれば、カルウィヌスが連合軍勝利したウァディモ湖の戦いで軍の指揮執り、ドラベッラがセネノス族領土(アゲル・ガリクス)を略奪したとする。しかしながら実際に北イタリアから戻ったドラベッラがウァディモ湖でも軍を指揮した思われる。カルウィヌスの軍もセネノス族の傭兵補強されていたエトルリア軍に勝利した凱旋式のファスティのこの部分欠落しているが、両執政官はその勝利を祝って凱旋式実施したとされる。カルウィヌスのアグノーメン第四名、添え名)のマクシムスは、この勝利由来する思われる

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執政官 (紀元前307年)

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アッピウス・クラウディウス・カエクス」の記事における「執政官 (紀元前307年)」の解説

ケンソル辞任後紀元前307年には執政官に当選する同僚はウォルムニウス・ウィオレンスで、彼とプロコンスルファビウス・マクシムス外敵に当たる間、アッピウス内政専念したという。

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執政官 (紀元前296年)

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アッピウス・クラウディウス・カエクス」の記事における「執政官 (紀元前296年)」の解説

紀元前297年の末、サムニウム相手勝利したその年の執政官ファビウス・マクシムス続けて翌年の執政官に当選した選挙立候補していたアッピウスは、二人の執政官のうち片方プレブスとするリキニウス・セクスティウス法無視して自分当選させるよう運動しファビウス圧力をかけた。しかしファビウスは自ら身を引くことで法を守り、翌紀元前296年の執政官はアッピウス前回同僚ウォルムニウス・ウィオレンスが務め事となった。 前年の執政官ファビウス・マクシムスとデキウス・ムスは更に半年プロコンスルとしてサムニウム戦争継続する事となり、ウォルムニウスもそれに加わった。しかしサムニウム人指揮官扇動によってエトルリアに反ローマ陣営集結しつつあり、アッピウスがこれに対処する事となった。ウォルムニウスはアッピウス援軍要請によってサムニウム戦線からエトルリア駆けつけたが、当のアッピウスはそれを否定し同僚追い返そうとした。これに慌てた将校たちが両者とりなし、また兵たちもウォルムニウスを引き止めたため、共同して敵を倒したリウィウスによると、アッピウスはこの戦い最中戦の女神ベローナ神殿奉献誓約し最前列で兵たちを督戦し、ローマ軍は7800人を倒し捕虜も2120人に達したという。 この年サムニウム人によって荒らされ地域防衛強化のため、ミントゥルナエとシヌエッサへの入植決定されたが、希望者が少なく、またエトルリア戦線アッピウスから危機知らせ報告続々届いたためウヤムヤとなり、翌年政務官決め選挙ではアッピウスローマ不在のままプラエトル選出された。

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執政官(紀元前220年)

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マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス」の記事における「執政官(紀元前220年)」の解説

カピトリヌスのファスティの紀元前 221年 - 紀元前219年の分は欠落しているが、354年ローマ歴(Chronographus anni 354)では、ラエウィヌスは紀元前220年クィントゥス・ムキウス・スカエウォラと共に執政官に就任したとする。他方別の資料では、紀元前220年の執政官をガイウス・ルタティウス・カトゥルスとルキウス・ウェトゥリウス・ピロとするものもある。ティトゥス・リウィウス紀元前205年紀元前203年出来事に関する記述で、ラエウィヌスは二度執政官を務めたカピトリヌスのファスティから紀元前210年にラエウィヌスが執政官を務めたことは確かである)としている。このことから、何人かの研究者はラエウィヌスとスカエウォラが正規執政官であり、カトゥルスピロ補充執政官であった考えている。しかし、一部研究者リウィウスが言う二度の執政官とは、紀元前210年より後、例え紀元前208年には正規執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスティトゥス・クィンクティウス・クリスピヌス戦死しており、ファスティには記されていないもののラエウヌスが補充執政官務めたではないか考えている。もし、ラエウィヌスとスカエウォラが途中辞任しただとすれば両者共にクラウディウス氏族一派属しており、対立するアエミリウス氏族とコルネリウス・スキピオ家との政治抗争巻き込まれたものと思われる

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執政官(紀元前210年)

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マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌス」の記事における「執政官(紀元前210年)」の解説

これらの成功もあって、ラエウィヌスはローマ離れていたにも関わらず紀元前210年執政官に選出され、プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスに軍の指揮引き渡してローマ戻った同僚執政官はマルクス・クラウディウス・マルケッルスであった。両執政官は8年前に戦利品に関する不正で有罪とされていたマルクス・リウィウス・サリナトル政界復帰認めたくじ引き結果、ラエウィヌスはイタリア半島戦線、すなわちハンニバル対処しマルケッルスシキリア第一次ポエニ戦争の後にローマ属州になっていたが、ハンニバル呼応して反乱していた)を担当することになった上手くいかず、このため元老院担当交換するよう命じた紀元前210年後半にラエウィヌスはシキリア到着した。アグリゲントゥム(現在のアグリジェント)を強襲して占領住民全て奴隷とされた。その後ローマ軍は6都市攻撃して占領20都市ローマ寝返り40都市戦わず降伏した全島ローマの支配下に戻りシキリアには平和が訪れイタリアへ穀物供給源となった軍事目的のため、ラエウィヌスはメッセネ(現在のメッシーナ)、パノルムス現在のパレルモ)、リリュバイウム(現在のマルサーラ)を結ぶ道路舗装した紀元前210年の末、ラエウィヌスは選挙実施のためにローマ戻った。このときに、彼の甥であるマルクス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラアフリカ沿岸襲撃成功したとの報告届いたこのため、ラエウィヌスはメッサッラをシキリア防衛のための独裁官任命したい旨を元老院告げた。しかし、元老院このような人事ローマで行われるきとして、これを拒否した民会翌年選挙実施のためにクィントゥス・フルウィウス・フラックス独裁官任命した。ラエウィヌスは民会開催される前に秘密裏ローマ離れてシキリア向かっていた。

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