The Heart Break Kid
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「ショーン・マイケルズ」の記事における「The Heart Break Kid」の解説
1991年11月27日、サバイバー・シリーズにおける同士射ちで相棒のマーティ・ジャネッティと仲間割れ。翌1992年初頭のブルータス・ビーフケーキのインタビュー・コーナー "バーバーショップ" で一旦は和解したかに見えたが、不意をついて放ったスウィート・チン・ミュージックでジャネッティをKO。以降、鏡を携えたセンセーショナル・シェリー(入場曲 "Sexy Boy" の初期ボーカルも担当)をマネージャーに、生意気な自惚れ男のギミック "ボーイ・トーイ" またの名を "ハート・ブレイク・キッド" としてヒールのシングルプレイヤーに転向した(ハート・ブレイク・キッドのネーミングは、"ミスター・パーフェクト" カート・ヘニングの考案による)。 ヒールターン後はティト・サンタナとの連戦を経てブレット・ハートとの抗争を開始し、1992年7月にブレットの保持するIC王座に挑戦。この試合はWWE史上初のラダー・マッチで行われたが、タイトル奪取には至らなかった。その後、同年10月27日にブリティッシュ・ブルドッグを破り同王座を獲得、初のシングルタイトル戴冠を果たした。 サバイバー・シリーズではブレットのWWF世界ヘビー級王座に挑戦するがシャープシューターで敗退。1993年3月のRAWではマーティ・ジャネッティにIC王座を奪われるも、短期間で王座を奪還する。同時期、マネージャーのシェリーと決別し(ジャネッティの急襲をシェリーを盾にして防いだことによる)、ボディーガードとして新しくディーゼルを雇っている。 そうした中、WWFを一時離脱。王座防衛を行わないことが理由とされたが、ステロイドが原因という噂もあった(本人は否定)。WCWとの接触も噂されるも、ほどなくして復帰。当時WWFと提携していたメンフィスのUSWAにも参戦している。11月のサバイバー・シリーズではハート・ファミリー(ブレット、オーエン、ブルース&キース・ハート)(w / スチュ・ハート)を相手に主将を務めた。 ショーンが離脱中の1993年9月27日、空位のIC王座を争うバトルロイヤルに勝ち残ったレイザー・ラモンとリック・マーテルの間で王座決定戦が行われ、ラモンがマーテルを下して新王者になった。しかし、復帰したショーンはこれを認めずに互いに王者を主張し合った。真の王者を決めるべく行われたのが、1994年のレッスルマニアXでのレイザー・ラモンとのラダー・マッチである。試合には敗れたものの、双方ともに実力を出し切ったこの試合はショーンの大ブレイクにつながった。同年8月28日、ボディーガード役のディーゼルとのコンビでザ・ヘッドシュリンカーズ(ファトゥ&サムゥ)を破り、ロッカーズ時代には果たせなかったWWF世界タッグ王座獲得を実現。しかし翌日のサマースラムでのIC王座を掛けたディーゼルvsレイザー・ラモンにおいて、誤ってディーゼルにスウィート・チン・ミュージックを見舞ってしまう。これが原因で2人の間に亀裂が生じ、11月のサバイバー・シリーズでのディーゼルの裏切りを誘発することとなった。 1995年、ロイヤルランブルで一番手として登場、初優勝を経てレッスルマニアXIにてディーゼルの持つWWF世界ヘビー級王座に挑戦したが敗退。この際、新しいボディーガードとしてサイコ・シッドを雇うが敗北の翌日に襲撃され、しばらくの休養に入る。 その年の5月にベビーフェイスとして復帰。7月のイン・ユア・ハウスにてジェフ・ジャレットを破り、3度目のIC王座獲得に成功。8月のサマースラムではレイザー・ラモンとの再度のラダー・マッチにも勝利した。この時期にはクリックのリーダーとして舞台裏での影響力を強め、10月のイン・ユア・ハウスではディーン・ダグラスに王座を明け渡すことを拒否し、負傷による王座返上にアングルを変更させ、同日に仲間のレイザー・ラモンに王座を獲得させている。その後はオーエン・ハートらと抗争したがサバイバー・シリーズの翌日にオーエンにエンズイギリを食らい脳震盪を起こすストーリーを設け、短期間ながら欠場する。ちなみに、布石としてナイトクラブにおいて襲撃されるストーリーもあった。 1996年はロイヤルランブルで史上初となるロイヤルランブル連覇を達成。レッスルマニアXIIでは、WWF世界ヘビー級王者ブレット・ハートとWWF史上初のアイアンマン・マッチで対戦。入場時は会場のアローヘッド・ポンドの屋外最頂部から滑車を使ってロープを滑り降りるという破天荒なパフォーマンスをやってのけた(この入場シーンの映像はショーンのハイライトを振り返る上で必ずと言っていいほど流される)。試合は後にショーンが「自分の現役生活でも最高の試合」と評するほどの激闘となり、延長戦の末勝利。初のWWF世界ヘビー級王座奪取を果たした。しかし、この時の経緯を巡りブレット・ハートは激怒し、彼との間に大きな確執を残すこととなった。また、同年5月19日にはMSGのリング上でカーテンコールを行い、後々に影響を及ぼしている。 名実ともにWWFの頂点に立ったショーンは、ブレットが長期休養を取ったこともあり、マンカインド、ベイダー、ブリティッシュ・ブルドッグらを相手に防衛を重ねるが、サバイバー・シリーズでサイコ・シッドにWWF王座を奪われた。翌1997年1月19日、地元サンアントニオのアラモドームに6万人超の観客を集めたロイヤルランブルで王座を奪回するが、この試合で膝を痛め王座返上し、レッスルマニア13には不出場。しかし、これは直前にブレットが契約更改でビンス・マクマホンから高額な契約金を引き出したことに対しての試合ボイコットであった、という説もある。 復帰後の5月25日には、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと組んでオーエン・ハート&ブリティッシュ・ブルドッグからWWF世界タッグ王座を獲得。この年のサマースラムでは、ブレット・ハート対ジ・アンダーテイカーのWWF世界ヘビー級王座戦のゲストレフェリーを務めた。この試合の決着はショーンのテイカーへのイス攻撃誤爆によってブレットが勝利を奪った。これがきっかけとなりアンダーテイカーとの抗争が勃発、10月のバッド・ブラッドにて初のヘル・イン・ア・セルが行われた。試合は金網の外側にも及び、天井での攻防の末に5メートルしたに落下するなど激闘となり、結末はケインの乱入によってテイカーが敗北を喫した。この抗争の最中、9月20日のイギリス・バーミンガム大会において、ブリティッシュ・ブルドッグからWWFヨーロピアン王座を獲得、これによって初のグランドスラムを達成している。
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