1822年 - 1823年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/14 22:42 UTC 版)
「西インド諸島海賊掃討作戦」の記事における「1822年 - 1823年」の解説
アメリカ海軍が海賊に対する作戦を始めると、イギリス海軍も即座に追従し、独自の西インド諸島戦隊を創設した。1822年と1823年にはイギリス海軍と海賊船の間に重要な海戦が3回起こった。1822年3月、USSエンタープライズのボート乗組員が、アントニオ岬に近いクリークで2隻のランチと4隻のボートを捕まえ、3月6日にはさらに8隻の船と150人以上の海賊を捕まえた。1822年7月、ウィリアム・スミス船長のイギリス商船が、スペインの海賊スクーナーエマヌエルに乗っ取られた。この海賊はイギリスの指揮官に「板の歩行」をやらせ、スミスが泳いで逃げようとしたときに、背中を銃で撃たれた。この船には船長の14歳になる息子も乗っていたが、子供が泣き叫ぶのを聞いていられなくなった海賊船長が、その頭を潰した。USSグランパスは1822年8月15日に、スペインの国旗を掲げたブリッグ船パリャーマに遭遇した。グランパス指揮官のグレゴリー大尉はこの船が海賊船ではないかと疑い近付いていったが、そのときにパリャーマが発砲したので、僅か3分半の戦闘が行われた。敵船に乗り移ると、海賊はプエルトリコから来たものであり、このようなときのために私掠許可状を持っていることが分かった。この許可状は偽物だったので、海賊を拘束し、キューバでスペイン当局に渡された。当時、アメリカ合衆国には捕まえた海賊を投獄する権限がなかったので、彼等をスペインに渡すのが通常の手続きだった。 アメリカ海軍はスペイン領土に上がった海賊を追撃することもできなかった。1822年4月、USSマケドニアンのデイビッド・ポーター代将は指揮任務に就くと、その最初の任務としてキューバ総督ドン・ニコラス・マーイ総司令官、およびプエルトリコ総督との交渉にあたった。どちらの総督も、アメリカ陸戦部隊の上陸要請を断ったが、これと同じ時期に、アメリカ合衆国政府は、遠隔地であれば西インド諸島戦隊が上陸させることを認めた。1822年9月28日から30日、ポーター代将はキューバのフンダ湾で海賊軍を攻撃し破壊した。9月28日にはまた、ピーコックがハバナから約60マイル (96 km) で、海賊で一杯のボートを捕獲した。その日の午後、ピーコックは商船のスピードウェルと出遭ったが、この商船はその数時間前に海賊に襲われたところだった。ピーコックのスティーブン・カッシン艦長はボートによる遠征隊を派遣し、4隻のスクーナーを捕獲したが、海賊の大半には逃げられてしまった。 1822年9月30日、イギリス海軍HMSタイン(大砲26門搭載)が商船スループエリザ(大砲1門搭載)を護衛しているときに、ファームユニオンという船名の海賊ファルーカ(大砲5門搭載)に攻撃された。それに続いた戦闘で、イギリス兵が乗り移り、海賊船を捕まえた。海賊10人が殺され、他の者は船を捨てて逃げ出した。1822年11月2日、密輸監視船USRCルイジアナが、USSピーコックやイギリス海軍のスクーナーHMSスピードウェルと共に、ハバナ沖で5隻の海賊船を捕まえた。1822年11月8日、USSアリゲーターのウィリアム・ハワード・アレン大尉が、5隻の商船を人質にしていた敵のスクーナー3隻に対する攻撃を指揮していたときに戦死した。9月11日の海戦では、2隻のスクーナーが捕獲され、少なくとも14名の海賊が殺された。アレン大尉が戦死したことによって、アメリカ合衆国海軍長官スミス・トンプソンは、この戦隊に新しい艦船を購入することをポーター代将に認めた。 ポーターは新しく喫水の浅いスクーナー8隻、大型艀5隻、蒸気駆動川船1隻、貨物用スクーナー1隻を購入した。8隻のスクーナーにはそれぞれ大砲5門を搭載し、USSビーグル、USSフェレット、USSフォックス、USSグレイハウンド、USSジャッカル、USSテリア、USSウィーゼル、USSワイルドキャットと命名された。貨物用スクーナーはUSSデコイ、蒸気船はUSSシーガルと命名された。1823年2月15日、この新しい戦隊はアメリカ合衆国を出てキューバに向かった。ビドル代将も新しい行動命令を受けており、まず地元に情報を与えた場合に限って人の住む地域に上陸部隊を送ることが可能になった。ビドルはまた海賊と対抗する他国の海軍と共同行動を採る命令も受けていた。1823年3月1日、キューバの南でイギリス海軍のHMSグレシアン(大砲6門搭載)がスクーナーのラカタ(大砲8門搭載)を捕獲した。この時の戦闘で30名の海賊が殺され、100名以上いた賊の中で3名のみが捕虜になった。1823年3月にはUSSフォックスがプエルトリコのサンフアンに派遣され、法的に免許状を発行された私掠船のリストと、それらに与えられた支持の詳細を取得することになっていた。フォックスが3月3日にサンフアン港に入ると、砲台から発砲された。何発かがフォックスに当たり、ウィリアム・H・コック大尉が致命傷を負った。ポーター代将は後にプエルトリコ総督からこの事件の謝罪を受け入れた。3月31日、イギリス海軍の艦船タインとHMSスラシアン(大砲18門搭載)が、悪名高い海賊船長カヤタノ・アラゴネスのザラゴサナ(大砲13門搭載)を破った。帆走しながらの闘いとなったこの戦闘では、イギリス艦2隻がザラゴサナをキューバのマタ港に追い込み、ボートを降ろしてその海賊船を捕獲した。海賊10名を殺し、28名を捕虜にしたが、イギリス艦の被害は微少だった。4月8日、アメリカの艀USSガリニッパーとUSSモスキートがアメリカの商船を解放した。海軍兵は海賊2人を殺し、1人を捕まえたが、大半には逃げられた。 4月16日、モスキート、ガリニッパーおよびUSSピーコックが、キューバのコロラドス沖で1隻のファルーカを視認した。ピーコックがそのファルーカを捕獲することに成功したが、乗組員は岸に逃げ、そのスクーナーの3隻を自沈させた。 1823年6月アメリカのスクーナー、シボレスが海賊に捕まった後、グランパスがその乗組員を救出した。海賊は商船に静かに乗り移り、衛兵を殺し、残っている乗組員は船内の隅に追いつめた。海賊が船内を略奪し火を付けたところに、グランパスが到着し、燃えている船から乗組員を救出した。その数日後、海賊が別の商船を襲ったが、スペイン陸軍に発見され捕まえられた。6月にはUSSフェレットの乗組員が海賊と小競り合いを行った。ある事件の最中に、フェレットはマタンサス沖の浅い海で海賊船数隻を発見した。フェレットはまずその舷側の大砲で、海岸沿いに逃げていた船の2隻を沈めた。水深が浅かったためにボートを使って残っていた船を攻撃したが、アメリカ兵が近付くと、海賊達が発砲してボートに穴を明けたので、ボートはフェレットに戻った後で沈んだ。フェレットの唯一のボートが壊されたので、その後は偵察行動をするしかなく、海賊達は岸に揚がった。その日遅く、喫水の浅い小型船を調達し、ボートが沈んだ所に戻って海賊と戦おうとしたが、悪天候のために作戦は中止された。翌朝フェレットはイギリス商船と出会い、ボートを貰った。フェレットは再度マタンサス湾に戻ったが、前日に沈めた2隻の船が見つかっただけだった。 1823年7月5日、ウィリアム・H・ワトソン大尉が指揮するUSSシーガルが、艀のガリニッパーとモスキートと共に、マタンサス沖で海賊と戦った。そこは前年にアレン大尉が戦死した場所に近かった。アメリカ海軍の3艦はキューバのある村近くで、75名が乗り組む武装の厚いスクーナーに遭遇した。アメリカ海軍がその大砲で攻撃すると、そのスクーナーに着弾したので、その船長は撤退を始めた。さらに砲弾がスクーナーに当たり、海賊達は恐慌を来し、海に飛び込んで船を捨て始めた。艀がスクーナーに接近し、乗艦していた水兵と海兵が逃げる敵艦に一斉射撃を行い、その時に「アレン、アレン」と叫んでいた。海賊15名が岸まで辿り着いたが、アメリカ上陸部隊に攻撃された。さらに11名が殺され、最後に残った4名がキューバの村人によって捕まえられた。全体で海賊70名が殺され、5名だけが生き残った。7月21日、ビーグルとグレイハウンドの指揮官がキューバのカペクルスをボートで調査中に、岸からの狙撃を受けた。アメリカ兵はその母船に戻り、翌朝水兵と海兵を上陸させて、出来合いの砦を攻撃し破壊した。海賊は上陸部隊の攻撃を逃れたが、その基地は破壊され、数門の重砲は除去された。ラルフ・ボーヒーズの指揮したUSSシーガルが3月30日に海賊に捕らえられていた商船スクーナーパシフィケーションを取り返した。
※この「1822年 - 1823年」の解説は、「西インド諸島海賊掃討作戦」の解説の一部です。
「1822年 - 1823年」を含む「西インド諸島海賊掃討作戦」の記事については、「西インド諸島海賊掃討作戦」の概要を参照ください。
1822年 - 1823年(2 - 15話)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 17:43 UTC 版)
「レ・ミゼラブル 少女コゼット」の記事における「1822年 - 1823年(2 - 15話)」の解説
ファンティーヌは子持ちであることが知られ、「マドレーヌの指示」として工場を不当に解雇される。何とか新しい仕事を見つけるも要求額がエスカレートするコゼットの養育費を支払いきれず、自身の髪まで売り、路上生活者となってしまう。その後も貧困の中で命を削って働き続けるが、心身ともに病んで人間不信に陥り、自分を解雇したマドレーヌを恨むようになる。ある雪の夜に男たちとトラブルになり、モントメイユ・シュル・メールの警察署長・ジャヴェールに逮捕され、投獄されそうになったところをマドレーヌらに救われる。マドレーヌはファンティーヌに深く謝罪し、モンフェルメイユからコゼットを連れ戻し、親子で生活する為の資金も家も全て自分が負担することを約束するが、衰弱しきったファンティーヌの命を繋ぐものは「まもなく娘と再会できる」という希望だけとなっていた。
※この「1822年 - 1823年(2 - 15話)」の解説は、「レ・ミゼラブル 少女コゼット」の解説の一部です。
「1822年 - 1823年(2 - 15話)」を含む「レ・ミゼラブル 少女コゼット」の記事については、「レ・ミゼラブル 少女コゼット」の概要を参照ください。
- 1822年-1823年のページへのリンク