黒澤降板後の監督人選
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「トラ・トラ・トラ!」の記事における「黒澤降板後の監督人選」の解説
黒澤解任後の20世紀フォックス内部は動揺の連続だった。20世紀フォックス本社では、黒澤解任が伝わると「後任監督はケンジ・ミゾグチで」と既に故人になっている巨匠を指名してくるほど日本映画を知らず、黒澤を解任したのは1968年のクリスマスイブだが、元黒澤プロの青柳プロデューサーは、1968年12月26日からは黒澤を抜いた形で撮影を予定通り進めるつもりでいた。ところが黒澤解任に対する日本芸能界の反響が想像以上に大きく、20世紀フォックス本社内部では一時「日本での製作は断念しよう」という声が支配した時期があったという。しかしプロデューサーのエルモらが「日本で日本人の手によって撮影するのが最善の方法」と主張し最終的にはこれが支持されることになった。1969年2月12日製作面の最高責任者であるリチャード・D・ザナック20世紀フォックス副社長が来日し、エルモを交えてホテル・オークラを中心に会議が続けられ、1969年2月14日「一日も早く日本で撮影を再開する」という結論に達した。また元黒澤プロの青柳プロデューサーは本作から完全に手を引くことになり、日本での製作面は一切、エルモが采配を振ることに決定した。 この決定を受け、日本側の黒澤後任監督の人選を限られた時間の中で早急に行うこととなった。 その後、製作総指揮のダリル社長と息子のリチャード・ザナック、そしてエルモの3人で日本側シーン撮影に関する国際電話会談が行われたがダリル親子は当初エルモに日本側シーンの撮影を日本からハワイに移し、スタッフ・キャスト(日本側)はすべて現地の人間で編成し撮影することを提示してきたという。しかしエルモは当初の企画意図に反するこの案に反対し日本側シーンの撮影は後任の日本人監督を立て日本人スタッフ・キャストで引き続き撮影することを強く主張しダリル親子を説得、承認された。 まず日本側後任監督として20世紀フォックスからオファーを受けたのは『人間の條件』等で知られ海外の映画祭で数々のグランプリに輝いていた小林正樹であったが断られ、その後も市川崑、岡本喜八、中村登、映画『黒部の太陽』撮影中の熊井啓などにオファーしたものの「黒澤監督が降ろされた事情もはっきりとしないのに引き受けられない」とことごとく断られた。 舛田利雄は「黒澤さんを解任して、自分のところに監督オファーが来るまで、20世紀フォックスが話を持っていったのは、三船敏郎さんと市川崑さん」と述べており、20世紀フォックスが黒澤と舛田の間に話を持って行ったと当時の文献で確認できるのは、三船敏郎と市川崑だけである。 黒澤解任後、20世紀フォックスは最初に東宝から独立し自身を社長とする三船プロダクションを立ち上げた三船敏郎に話を持って行った。三船は1969年1月23日、三船プロ製作の『風林火山』の試写会後、帝国ホテルでの記者会見で『トラ・トラ・トラ!』問題について正式な説明を行った。内容は、20世紀フォックスの日本代表レオン・フェルダンから1月15日、正式に山本五十六役で出演を望まれた、これを受ける条件として20世紀フォックスと黒澤プロ及び黒澤監督の間のトラブルを完全に解決して欲しい、山本五十六役は三船個人として受ける気持ちはない、製作の全権を三船プロに任せるなら引き受けてもよい、と回答したと説明。この要求に対する20世紀フォックス側からの正式な返事はまだないと話した後、三船はエキサイトし語気も荒く「理由はどうであろうと、アメリカの映画会社から日本の一流監督を一方的に解雇されたことは、日本の映画界が国際的に恥をかいたということで黙っていられない。黒澤氏は契約問題については何も知らないと言っているが非常識すぎる。また黒澤プロの重役である青柳、菊島、窪田の三氏が辞表を出したということだが、そんなことで責任を逃れられるものではない。徹底的に真相を追求し、日本の全映画人に謝罪をしてもらいたい。また今回の作品で黒澤監督が素人の人を俳優として起用したが、これはわれわれを含む全職業俳優に対する挑戦だ。プライドを持つ俳優なら今後黒澤映画に出るべきでない。真珠湾攻撃の問題をいいかげんな解釈のもとにアメリカ側で撮られたら困る。日本の真の姿を世界の人に知ってもらうよう、我々日本人と自覚において作るべきだ」などと捲し立てた。一部のメディアには「後任は三船で決定した」と書かれた。しかしこの後、三船は先の二条件以外に「演出を黒澤監督にしたい」と加えたため、20世紀フォックスが一度解任した黒澤を再び起用することは考えられず、三船起用の線は消えた。また三船の発言が黒澤批判と取られ騒ぎになったため、慌てた三船はすぐに黒澤を訪ね誤解を解き、「再起第一作を是非。明日からでもOKです」と申し入れ黒澤を喜ばせた。 因みに三船は黒澤監督降板前後に東宝が製作していた戦争大作企画「8・15シリーズ」の第2作『連合艦隊司令長官 山本五十六』(丸山誠治監督作品)で山本五十六長官役で主演。その後、本作『トラ・トラ・トラ!』が完成し日本公開されたのと同時期に公開された「8・15シリーズ」第4作『激動の昭和史 軍閥』(堀川弘通監督作品)でも同じく山本長官を演じている。なお、この作品にも当作で山本長官を演じている山村聡は米内光政役で特別出演している。 市川崑は「(1969年)2月11日にエルモに会ってお互いの条件を話し合ったが、監督を引き受けるかどうかまだ決めていない」と話し、1969年2月15日、「黒澤さんに対する道義的な気持ちとスケジュールの調整困難」などの理由で20世紀フォックス側に辞退を伝えた。当時の文献には市川崑と舛田利雄の共同演出の構想があったことが確認できる。 黒澤監督の降板後、それまで日本側シーン撮影に参加していたスタッフは後任監督が決定するまでの間、撮影スタジオの東映京都撮影所に留まっている者もいたがメインスタッフだった黒澤組のスタッフや助監督らは既に芦屋に建造されていた戦艦・長門と空母・赤城の原寸大オープンセットやスタジオセットを準備していた村木与四郎、近藤司率いる美術スタッフらを除いてほとんど降板した。また、企画段階から参加し音楽担当で作曲作業を進めていた武満徹も降板している。 黒澤が意欲的に抜擢した素人俳優たちは黒澤降板後に解雇され、源田実中佐役で出演予定だった山崎努をはじめとする職業俳優出演者の一部も降板した。
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