黄金期のキャリア
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「シスター・ロゼッタ・サープ」の記事における「黄金期のキャリア」の解説
1938年10月、レコード会社のデッカから、ラッキー・ミリンダー楽団の伴奏でサープは初のレコーディングをした。デッカによる初のゴスペル曲として録音された4曲「ロック・ミー(英語: Rock Me)」「ザッツ・オール(英語版)」「マイ・マン・アンド・アイ(英語: My Man and I)」「ロンサム・ロード(英語版)」は瞬時にヒットとなり、サープの名声を確立し、商業的に成功した最初のゴスペル・アーティストとなった。「ロック・ミー」はエルビス・プレスリーやリトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイスなどロックンロールのスター達にも影響を与えている。ロックンロールという言葉を生み出したとされるアメリカの著名な批評家モーリー・オロデンカーはサープの「ロック・ミー」について「ロックンロールで、スピリチュアルな歌唱」とレコード評を記しており、この時にロックンロールという言葉が初めて公式に使われたとする説もある。 1938年10月にはキャブ・キャロウェイとともにNYハーレムにあるコットン・クラブに出演。また同年12月にはカーネギーホールで開催されたジョン・ハモンド主催の『スピリチュアル・トゥ・スウィング』コンサートに出演し、さらなる名声を獲得した。 スピリチュアルな歌詞を大衆音楽的な演奏で表現する彼女のスタイルは敬虔な教会の信者達を驚かせ、時に激怒させ批判の的となる。ナイト・クラブでブルースやジャズのミュージシャン、肌もあらわなダンサーとともにゴスペルを演奏するのは前代未聞のことであり、一部のゴスペル、キリスト教コミュニティから敬遠されるようにもなった。サープ自身は本格的なゴスペル演奏も望んでいたものの、ミリンダー楽団と7年にわたる契約をしていたため、大衆向けの演奏が優先された。一方でディキシー・ハミングバーズ(英語版)やジョーダネアーズ(英語版)などの男性ゴスペル・グループとも共演したり、ツアーを行っている。 サープが教会信者やゴスペル・コミュニティの怒りを買った背景には、元来ゴスペルはオルガン演奏のもと歌われるものであり、ギターという楽器が俗世的なものとして敵視されていたことなどもあげられる。当時はギターの技巧は男性らしさの象徴とされ、女性がギター演奏をすることに眉をひそめる人々も少なくなかった。サープはアポロ劇場でのギター・バトルをはじめさまざまなステージでまわりの男性ギタリストを圧倒する技巧を見せ、たびたび「男のような」演奏と皮肉まじりに称賛された。 1944年にデッカのハウス・ミュージシャンでありブギウギのピアニスト、サミー・プライス(英語版)と録音した「ストレンジ・シングス・ハプニング・エブリデイ(英語版)」では、類を見ないギター・テクニック、ウィットに富んだ歌詞やラップを思わせる歌唱法などロックンロールの原点となるような演奏を披露。このアルバムを最初のロックンロール・レコードとする人々もいる。サープは第2次世界大戦中も演奏を続け、戦意高揚のため国外の軍隊に配られたV-ディスク(英語版)にも彼女の楽曲は収録された。V-ディスクに収録されたゴスペル・アーティストはたったの2名で、サープはそのうちの一人であった。 1946年、マヘリア・ジャクソンがニューヨークで行ったコンサートでマリー・ナイト(英語版)の演奏に出会い、ナイトの才能を感じ取ったサープは2週間後には彼女をツアーに誘い出した。サープとナイトは数年にわたってゴスペル・ツアーを行い、「アップ・アバーブ・マイ・ヘッド(英語版)」「ゴスペル・トレイン」などのヒット曲も生み出した。サープとナイトの間には恋愛関係があるとのゴシップも流され、サープの自伝となる『エッセンシャル・バイオグラフィー シャウト・シスター・シャウト!(英語: Shout Sister Shout!)』の著者であり歴史家のガイル・ワルド(英語版)によると、マリー・ナイトとの関係は公然の秘密だったとされ、サープがクイア(レズビアンまたはバイセクシュアル)であったことが指摘されている。 1949年に入ると彼らの人気は急速に衰えはじめる。マヘリア・ジャクソンがサープに代わって人気を博すようになり、一方でナイトはポップ・ミュージックでのソロ活動を望むようになった。この時期、ナイトは火事により子どもと母親を失うという悲劇に見舞われている。同年サープはリッチモンドに構えた自邸の1周年を記念して、現在はアルトリア劇場(英語版)として知られる建物でコンサートを開催。このコンサートでバック・ボーカルとして採用したのが後にロゼッテズ(英語: The Rosettes)と改名するトワイライト・シンガーズ(英語: Twilight Singers)である。1951年には25000人もの参列者のもと、彼女のマネージャーだったラッセル・モリソン(英語: Russell Morrison)と結婚した。これは彼女の3度めの結婚となった。結婚式はワシントンのグリフィス・スタジアムで行われ、サープの演奏も披露された。 1956年にはゴスペル・グループのハーモナイジング・フォー(英語版)とアルバム『ゴスペル・トレイン(英語版)』を作る。1957年には英国のトロンボーン奏者クリス・バーバー(英語版)と1ヶ月に及ぶイギリス・ツアーを行った。1964年には、マディ・ウォーターズやオーティス・スパンらとともにフォーク・ブルース&ゴスペル・キャラバン・ツアーの一環としてヨーロッパ・ツアーに参加。キャラバン・ツアーは、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの創設者としても知られるジョージ・ウェインの後援を受け、プロデューサーのジョー・ボイド(英語版)によって運営されたツアーで、マンチェスターにある廃駅のプラットフォームで開催されたコンサートでは雨の中、感電の危険をものともせずエレクトリック・ギターをとり、カズン・ジョー(英語版)のピアノ演奏とともにステージにあがり「ディドゥント・イット・レイン(英語版)」を演奏した。その時の様子はイギリスのグラナダ・テレビ(英語版)によって全国放映され、「あのステージを見て、エレクトリック・ギターを手にしたイギリスの若者は多い」と後にボブ・ディランが語っている。
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