魔女狩りの展開と衰退
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12世紀に始まった異端審問が本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはワルドー派が迫害を逃れて潜伏していたアルプス西部地方(スイスのヴァレー州、フランスのドーフィネやサヴォワ)で始められた。ノーマン・コーンによれば、記録に残るものでは1428年にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供を捕えて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった。孤独で社会的に疎外された魔女というイメージは当時の人々の先入見にあったものではなく、後に生まれた伝承やグリム童話によるものである。 また、魔女の概念は当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ感情とも結びつき、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像が作られていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ感情の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。 15世紀に入ると、魔女と妖術に関する書物が一種のブームとなる。たとえばニコラ・ジャキエ(英語版)の『異端の魔女の鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール(英語版)の『魔女と女予言者について』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会の異端審問官であったハインリヒ・クラーマーによって書かれた『魔女に与える鉄槌(1486/87年)がある。 魔女狩りに対しては当時から多くの反対意見があったが、その中で特に大きな影響を与えたのがヨーハン・ヴァイヤーであった。1563年に『悪霊の幻惑について』 (De Praestigiis Daemonum) を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。同書は大きな反響を呼び、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にヴァイヤーは皇帝フェルディナント1世に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、次第に魔女狩りを行う地方が増加していき、ヴァイヤーが『悪霊の幻惑について』を執筆した地においても1581年には水審と拷問が復活している。 魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについては様々な説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年-1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会では、ある思想が社会階級や国境を越えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考様式から脱していなかったことを理解する必要がある。 ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック教会もプロテスタントもともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や妖術への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となった者はいなかった。しかしながら、これを引き継いだ1735年妖術行為禁止令は、1951年に詐欺的霊媒行為禁止令に取って代わられるまで存続し、第二次世界大戦中の1944年にヘレン・ダンカンが最後の拘留者となった。この逮捕は、彼女によってノルマンディー上陸作戦の計画が露見するかもしれないことを恐れた軍情報部の要請によるものとも言われている。1735年妖術行為禁止令は1983年までアイルランドで施行され続けた(が、実際に適用されることはなかった)。パレスチナを委任統治していたイギリスの法制度を導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。詳細は en:Witchcraft_Act#1735_Act を参照。
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