魔女狩りの展開と衰退とは? わかりやすく解説

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魔女狩りの展開と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 10:19 UTC 版)

魔女狩り」の記事における「魔女狩りの展開と衰退」の解説

12世紀始まった異端審問本格的に魔女を裁くようになったのは15世紀入ってからであるが、それはワルドー派迫害逃れて潜伏していたアルプス西部地方スイスヴァレー州フランスドーフィネサヴォワ)で始められた。ノーマン・コーンによれば記録に残るものでは1428年スイスヴァレー州異端審問所魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方異端審問所ワルドー派追及を主に行っていたため、やがて異端集会イメージ魔女の集会イメージへと変容していくことになる。悪魔崇拝する、あるいは聖なる物品侮辱する子供を捕えて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端集会行われていたとされたものそのままであった孤独社会的に疎外され魔女というイメージ当時の人々先入見にあったものではなく、後に生まれた伝承グリム童話よるものである。 また、魔女概念当時ヨーロッパ覆っていた反ユダヤ感情とも結びつき、「子供捕まえて食べかぎ鼻人物」という魔女像が作られていった魔女の集会ユダヤ人にとって安息日意味するサバト」という名称で呼ばれるうになるのも反ユダヤ感情産物である。このように人々の間に共通の魔女イメージ完成したのが15世紀のことであった15世紀に入ると、魔女妖術に関する書物一種ブームとなる。たとえばニコラ・ジャキエ(英語版)の『異端魔女の鞭』(Flagellum Haereticorum Fascinariorum, 1450年)やウルリヒ・モリトール(英語版)の『魔女と女予言者について』(De lamiis et phitonicis mulieribus, 1489年)などがあり、特に有名なものとしてドミニコ会異端審問官であったハインリヒ・クラーマーによって書かれた『魔女に与える鉄槌(1486/87年)がある。 魔女狩りに対して当時から多く反対意見があったが、その中で特に大きな影響与えたのがヨーハン・ヴァイヤーであった1563年に『悪霊幻惑について』 (De Praestigiis Daemonum) を発表し、『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠信仰もない」と非難している。その一方で、「やっかいな悪魔誘惑され高位高官人びと対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩り悪魔の誘惑よるものであり責任悪魔にあるとの説を展開しこれまで魔女裁判行った者への配慮も怠らなかった。同書大きな反響呼び多く地方において魔女裁判寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書論理弁明をすることもあった。第三版刊行時にヴァイヤーは皇帝フェルディナント1世に「不当な魔女裁判助長差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら次第魔女狩りを行う地方増加していき、ヴァイヤーが『悪霊幻惑について』を執筆した地においても1581年には水審拷問復活している。 魔女狩り最盛期16世紀から17世紀であったが、17世紀になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩り衰退したのかということについては様々な説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀ガリレオ・ガリレイ1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン1643年-1727年)など近代的な知性持ち主たちが次々と登場し出版物によって人々の意識変えた時代であったため、前近代的な魔女狩り一気衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人見方である。印刷術普及したといってメディアの発達ていない当時の社会では、ある思想社会階級国境越えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートン錬金術夢中であったことからわかるように、当時先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考様式から脱していなかったことを理解する必要がある。 ただ、17世紀末期になると知識階級魔女観が変化し裁判極刑を科さない傾向強まったこと、カトリック教会プロテスタントもともに個人特定の行為責任悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女妖術への恐怖があって「魔女」告発が行われても、肝心裁判担当する知識階級考え方変化して無罪放免というケース増えたことで、魔女裁判そのもの機能しなくなっていった。イングランド1624年制定され魔女対策法廃止されたのは1736年であり、最後40年間はこの法律によって死刑となった者はいなかった。しかしながら、これを引き継いだ1735年妖術行為禁止令は、1951年詐欺的霊媒行為禁止に取ってわられるまで存続し第二次世界大戦中1944年ヘレン・ダンカン最後拘留となった。この逮捕は、彼女によってノルマンディー上陸作戦計画露見するかもしれないことを恐れた軍情報部要請よるものとも言われている。1735年妖術行為禁止令は1983年までアイルランド施行され続けた(が、実際に適用されることはなかった)。パレスチナ委任統治していたイギリスの法制度導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。詳細en:Witchcraft_Act#1735_Act を参照

※この「魔女狩りの展開と衰退」の解説は、「魔女狩り」の解説の一部です。
「魔女狩りの展開と衰退」を含む「魔女狩り」の記事については、「魔女狩り」の概要を参照ください。

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