関係する人物や団体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 06:01 UTC 版)
日中協会ライバルの田中角栄とともに役員を務めた。 統一教会・国際勝共連合大蔵大臣在任中だった1974年(昭和49年)5月7日に、東京の帝国ホテルで開かれた、世界基督教統一神霊協会(統一教会、統一協会)の教祖、文鮮明の講演会「『希望の日』晩餐会」(名誉実行委員長は岸信介元総理)に同僚議員の誘いで参加し、「アジアの偉大な指導者」と文鮮明を賛美[要出典]。様々な社会問題で批判のあった統一教会に賛同を示すことに問題はないのかなど、国会でも度々追及を受けたが、福田は「文鮮明の思想はよく知らないが、自分の日頃主張する“協調と連帯”という考えを述べていたのでよかったと感想を言っただけ」、「パーティーや宴会ではちょっと輪をかけて話すんです。そのような環境のもとにおいて話したことで、そんなものを一々取り上げてそれを御質問されても、お答えすることはできない。」という旨の弁明をした。そして、福田は発言の内容について、「当時の記録がございますからよくごらんください」と述べていたが、衆議院の法務委員会で日本社会党の西宮弘が資料を要求したら、上村委員長からあいさつだから、原稿なしでやったのだから、記録があるはずがないという趣旨の報告がなされた。 勝共連合については国会で「勝共連合が反共を旗印にしておる、そういう点に着目いたしまして自由民主党と勝共連合が協力的側面を持っておったということは、これは御理解願えると思う」、「余り勝共連合の中身につきましては承知しませんけれども、共産主義反対というたてまえについて共感を覚えている」と述べ、勝共連合の外国為替法違反や詐欺に該当するような資金獲得活動などの反社会的な問題を指摘された際は「そう悪いことを一般的にしておるというような認識でございませんので、一般的に調査するということは考えません。」と答弁。関係を断ったらどうかとの問いには「勝共連合についていままで持っておる認識に立つと、手を切るというような問題は起こり得ざることである。」旨の見解を述べた。 児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義との親交が深く、「福田の影に大谷あり」といわれた。政財界とアンダーグラウンドの世界に隠然たる力を持ち、裏千家とも姻戚関係にあった大谷は、福田を首相にすべく、毎年代々木上原の千坪の豪邸に政財界の要人を招き、茶会を催していた。大谷の長女享子が、裏千家14世千宗室の子息・巳津彦と結婚した際には、作家の吉川英治夫妻と共に、福田夫妻が媒酌人を務めた。また、1991年(平成3年)5月に大谷が逝去した際には、葬儀委員長も務めている。[要出典] WWF(現WWE)格闘技世界ヘビー級チャンピオンアントニオ猪木を公私に渡り可愛がり、自身が媒酌人を務めた堤義明がオーナーたる日本プロ野球・パリーグ球団、西武ライオンズの初代名誉会長にも就任し1979年(昭和54年)4月西武ライオンズ球場初の公式戦で始球式を担当するなどプロスポーツ界との縁も深かった。 新日本プロレス特に新間寿の贔屓筋としてプロレスファンの間で有名であり、イギリスの税金の未払いがあった佐山聡をロンドンの日本大使館とイギリス政府との間の外交交渉で日本に帰国できるようにしたり、試合中に図らずも一般人との間にトラブルを起こして警察に逮捕されたスタン・ハンセンを早期に釈放させたりと、様々な取り成しを行った。 1987年 (昭和62年)、安倍晋三と電通社員の松崎昭恵の媒酌人を務めた。 1988年 (昭和63年)、かねてから親交のあった中華民国総統の蔣経国が亡くなった際に、政府特使として葬儀に参列した。 1989年 (平成元年)、元陸軍中将の鈴木貞一が亡くなった際の葬儀委員長を務めた。 1993年 (平成5年)、政敵であった田中角栄が12月16日に死去した際は、「計らずも政界では二人争うことになったが、個人的には良好な関係であった。誠に残念だ。」とコメントを残した。(筑紫哲也 NEWS23より)
※この「関係する人物や団体」の解説は、「福田赳夫」の解説の一部です。
「関係する人物や団体」を含む「福田赳夫」の記事については、「福田赳夫」の概要を参照ください。
- 関係する人物や団体のページへのリンク