閉鎖とその後
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1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって日本の占領が終結したことで、CIE図書館は閉鎖され、うち13の都市では米国国務省に移管のうえ5月1日からアメリカ文化センター (ACC) と改められた。基本的なサービス内容はそれまで通りであったが、米国政府の広報活動の最先端を担う施設となり、映画会、展覧会、英会話教室、講演会、人事交流事業に重点が置かれるようになった。翌1955年(昭和30年)には国務省から米国広報・文化交流庁に移管された。 1967年(昭和42年)以降、予算削減のため7つのセンターが閉鎖され、1972年(昭和47年)の時点で札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の6都市のみとなった。さらに1996年(平成8年)に京都、1997年(平成9年)に札幌のセンターも閉鎖されたが、USIAが国務省に統合された1999年(平成11年)には札幌のセンターが再開されることとなった。2006年(平成18年)には東京アメリカン・センターの資料室も閉鎖され、米国大使館へと移転した。
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閉鎖とその後
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しかし若竹は、前述の演芸場とは違いターミナル駅から遠く、立地条件に恵まれなかった。また圓楽の弟子達は営業の仕事を優先し、若竹の出番をしばしば欠席した。圓楽自身も莫大な負債を返済するため、テレビ番組の出演や全国を講演会に回ることで若竹の高座を務めることが難しくなった。これらの理由で若竹の集客数は振るわず、1989年11月25日に閉場となった。 閉場の記者会見は1989年11月9日、若竹の高座に一門の弟子を集めて行われたが、午後10時過ぎに始まり翌日午前1時半過ぎに終わるという異例の会見となった。最終日の25日は5代目圓楽が『芝浜』を披露し万感の思いで終幕を飾った。 閉場後は1階の中華料理店(若竹はビルの2階にあった)が店舗を拡張して使用していたが、2017年現在はフィットネスクラブの「スマートフィット100」が入居している(1階はセブン-イレブン江東区役所前店が入居)。その後、2020年2月にビル屋上看板の「若竹」「円楽党」の文字がはがされているのが確認されている。 現在、円楽一門が定席として使用している寄席はお江戸両国亭(永谷商事所有)であり、原則毎月1日から15日まで定席興行を行っている。
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閉鎖とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 09:35 UTC 版)
時代とともに徐々に特色が薄れて行き、1998年12月6日に温泉施設を除く部分が閉鎖された。 交通網の発達と周囲の発展により徐々に客足は遠のき、ついに温泉施設も閉園になった。 上記の紅葉パラダイス、旅亭 紅葉のかつての運営主体の丸玉観光株式会社(京都市)は、ホテル紅葉の旅亭 紅葉へのリニューアル、紅葉パラダイスの経営不振などが原因で2006年3月1日に倒産。旅亭 紅葉は倒産に先立って、ジャパンレジャーサービスグループ(略称:JLS/京都市)へ売却した。 前身のホテル紅葉の創業者木下彌三郎が収集したギリシャ・ローマ彫刻、日本画、洋画などを展示している木下美術館は倒産後も存続していたが、2008年に比叡平に新築移転した。 跡地は東急不動産へ売却され、リゾートのテイストを盛り込んだ総戸数275戸のマンション「ブランズ西大津レイクフロント」(その後隣接地に「ブランズ西大津レイクテラス」も建設される)が建設された(2006年5月に分譲開始。竣工は2007年3月中旬、入居は同年3月下旬開始))。 また、2009年現在、『パチンコ&スロット DREAM(ドリーム)』、『御食事処 サガミ』などの施設が建設されている。 さらに2012年10月、隣接施設の「びわ湖温泉紅葉」も老朽化等を理由に2013年1月いっぱいで閉館することが発表された。 廃業後も「ホテル・オリエント・エクスプレス」の客車のうち2両は解体されず、奈良県の宇陀市周辺に放置されている。
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