閉鎖と現状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:05 UTC 版)
検疫所自体は戦後も用いられており、翌1946年(昭和21年)から厚生省の管轄となって引き揚げや復員兵の検疫を行いつつ、規模を縮小しながらも存続した。1958年(昭和33年)施設の老朽化に伴い、似島検疫所は完全に閉鎖された。 一方で検疫所施設は戦後直後から他の用途へ転用された。まず1946年9月3日第一検疫所敷地内に「広島県戦災児教育所似島学園」(現在の似島学園)が開設される。第二検疫所には1965年(昭和40年)「平和養老館」と1984年(昭和59年)「広島市似島臨海少年自然の家」が開設、馬匹検疫所には1949年(昭和24年)広島市立似島小学校および広島市立似島中学校が移設している。 似島で亡くなった人の具体的な数は現在もわかっていない。広島市は1947年(昭和22年)以降数度にわたり島内で発掘作業を行い、遺骨や遺品を遺族に返還している。島内には検疫所関連の遺構や慰霊碑が多数存在している。 似島には捕虜収容所時代の文化が残っており、例えば似島臨海少年自然の家ではバウムクーヘン作りが体験できる。また、似島はある時期には「サッカーの島」と呼ばれ、似島学園創設者・森芳麿の息子である森健兒・森孝慈兄弟、堀口照幸や沖野等、似島中学校教諭の渡部英麿など多くのサッカー選手を輩出している。 2011年(平成23年)の広島平和記念式典では、原爆死没者慰霊碑に捧げる献水に当地の井戸水が採用されている。
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