郡山都市圏の成立史
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1615年の参勤交代の制度化により、当時の郡山村に奥州街道の郡山宿が設置され、1643年以降は二本松藩の領地となった。江戸時代を通じて、現在の福島県の範囲は、数多くの藩の本領や分領、天領や旗本領があり、幕末期で見ても11藩の本領と14藩の分領が乱立する状態であった。現福島県内最大の藩である会津藩23万石の城下町・若松が最大都市であったが、他には養蚕業が発達していた福島藩3万石の城下町・福島、白河藩の城下町・白河、磐城平藩3万石の城下町・磐城平、中村藩6万石の城下町・中村が比較的大きな都市として存在したが、それぞれ別の藩の城下町であって関連は薄く、郡山は単なる一宿場町の地位にあって交通の要衝でもなかった(会津道は奥州街道と白河城下で分岐、また郡山の北・本宮宿でも会津街道、三春街道、相馬街道が分岐している。)。又、郡山宿がある郡山盆地(安積原野)は水利が悪く、原野が広がっていた。 明治時代に入り、廃藩置県によって藩が廃止され、士族の特権も徐々に廃止されるなど、武士階級の没落が始まった。この時、「殖産興業」と「士族授産」の目的で、県や国の開拓事業として郡山盆地の開墾事業が開始された。安積疏水(猪苗代湖と郡山の間にある山に導水トンネルを掘って、郡山盆地に灌漑用水を引く)の事業により、郡山盆地の水利は劇的に向上し、1870年代末からは各地の士族が当地に続々と入植を開始し、結果、全国の9藩から約2000人が郡山に移住した(安積疏水は、1881年に全てが完成した)。疏水完成は、農業用水としての利用のほかに、水力発電による電力と工業用水の供給を実現させ、製糸・紡績業が盛んになった。すると、人口の増加と商業の発展が起こり、疏水の飲用水利用も下支えになって郡山の都市としての発展が始まった。すなわち、安積疏水によって、農・工・商、全ての発展が始まったことになる。 このような郡山盆地の変化の流れの中で、1876年8月21日には、若松県(会津地方)・福島県1876年以前(中通り)・磐前県(浜通り)の3県が合体合併され、現在の福島県が設置された。この時、県下1位の都市で旧若松県庁所在地であった若松町(21,584人)ではなく、陸羽街道(旧奥州街道)沿いの福島町(16,629人。県下2位)に県庁が置かれ、中通り優越の時代が始まった。 その後の郡山は、東北本線・上野 - 郡山開通(1887年)、郡山 - 若松間鉄道開通(1899年、後の磐越西線)、磐越東線開通(1917年)、水郡線開通(1934年)などの鉄道開通によって、交通の要衝という地位も得ることとなる。すると郡山は、町制施行(1889年)、市制施行(1924年、人口約4万人)と発展していき、1935年には人口5万4709人となって、福島県下一の都市に成長した。 戦後になると、郡山市は新産業都市の指定(1962年)を受け、京浜工業地帯の企業が郡山に進出するようになって、工業都市として発展した。また、国道4号・東北自動車道・東北新幹線の開通により、更に交通の要衝としての地位を確立していった。近年では、1997年に全通した磐越自動車道の開通や、郡山近郊に設置された福島空港により、東北有数の工業・流通地区となって、郡山都市圏(60万人)、列びに郡山経済圏(100万人)は、東北第二の都市圏・経済圏に成長した。 現在の郡山都市圏は、民放テレビ局2局と県域放送FM局1局、cFM2局を持ち、中通りの情報発信地としても機能している(県庁所在地である福島市には、NHK、民放テレビ局2局、cFM1局がある)。また、歌手の全国ツアーが福島県で開催される場合、基本的に郡山での開催となり、文化受容においても福島県の中心的役割を担うようになっている。 東北地方の県庁所在地や中核都市が、江戸時代からの城下町や重要港町を基礎にして発展してきた歴史を持っている中で、郡山市だけが北海道のような明治以降の開拓の歴史を持っており、「東北の中の札幌」のような、異質な存在となっている。 郡山都市圏は、岩手県の北上都市圏と共に、今後も東北地方の内陸工業・流通都市として発展していくと考えられている。
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