道路混雑の激化と採算悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 13:40 UTC 版)
「北陸鉄道金沢市内線」の記事における「道路混雑の激化と採算悪化」の解説
北陸鉄道社内全体では、1958年度(昭和33年度)上期にバス事業収入が鉄軌道事業収入を上回るようになり、乗車人員も1961年度(昭和36年度)下期にバスが鉄軌道線を越え、会社の主力事業がバスに切り替わった。この時期、路線網についてもバスが拡充され続ける中で、鉄軌道線は乗客減と道路整備の都合から1955年に松金線が廃止となり、次いで県南部の粟津線も道路整備のため1962年(昭和37年)に廃止され、徐々にバス転換が進みつつあった。 鉄軌道事業の退勢傾向の中で、金沢市内線についても1947年度に年間乗車人員の最高記録を記録したが5年後の1952年度には年間2800万人に減少した。その後1961年度まで年間2700万人台を維持したが1962年度以降大きく減少、1964年度は年間2302万人(1日平均約6万3000人)に低迷した。一方、同年度の北陸鉄道路線バス市内線の乗車人員は3277万人であり、金沢市内でも電車よりバスが主力となっていた。当時(昭和30年代以降)の高度経済成長に伴い、第二次・第三次産業従業者の増加、高等学校進学率の増加、そして人口自体の増加によって通勤・通学需要が増大していた。しかしながら人口増加は三馬地区・米丸地区をはじめとする旧市域外の新しい住居地区が中心であり、そうした近郊地域に新路線を続々と開設した市内バスが利用を増やし、限られた市街地域を走る市内電車に替わって市内交通の主役になったのである。 市内線を取り巻く環境の変化には、もう一つ自動車交通の増加もあった。金沢市における自動車保有台数は1960年代に大きく増加し、1964年には5年前の2.6倍、3万7000台に達している。台数増に伴い一般家庭の通勤・行楽や中小企業の業務交通を主体とする自動車交通量が急増する。その一方で、金沢市は戦災を経験しなかったことから戦災都市に比べて道路の拡張が著しく遅れていた。市では戦前の1930年に道路網の改良計画をまとめていたが、事業は戦前のうちに完成せず、戦後も容易に進展しなかった。従って戦災都市で幅員の広い道路が建設されていく中にあっても、金沢市では多くの幹線道路が大正時代に路面電車が敷設されたときのままで、広くても幅員は18メートルに過ぎなかった。その状態で交通量が急増したことから、狭い道路に自動車が集中し、市内交通は麻痺状態に陥った。一例として、1965年(昭和40年)10月の調査によると、中心部片町の交通量は道路構造令に定められた自動車交通容量の3倍に達しており、極端な低速運転を強いられる状態にあった。 道路交通量の増加は電車の運行速度低下に繋がった。一例として、金沢駅前 - 小立野間(1系統)の4.1キロメートルをバスは14分で運行するところ電車では22分も要した。速度低下による運行費用増加に高度経済成長に伴う人件費増加が重なって、市内線の収支は赤字に転落し、その赤字幅が拡大し続けていく。赤字転落は1960年度のことで、前年度の224万円の黒字から1935万円の赤字となった。1963年1月の「三八豪雪」では市内線は1月23日から2月12日まで3週間にわたって運休して多額の損害を受け、この1962年度には9526万円の赤字が生じる。採算悪化を受けて金沢市議会の同意を得て1963年12月8年ぶりに運賃値上げ(15円に)に踏み切ったものの、翌1964年度の赤字額は1億1150万円に達した。北陸鉄道全体で見ても昭和30年代から赤字が慢性化しており、同年度の赤字額は3億9329万円にのぼっていた。
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