連合軍進撃の停滞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦以降アメリカ・イギリス軍主体の連合軍(以下連合軍)はフランスで進撃を続け、8月25日にはパリ解放が実現した。その後も連合軍はドイツ軍を追撃したものの、予想以上に早い連合軍進撃は補給線延長を招いたため連合軍進撃は停滞し、戦線は膠着状態にあった。9月4日にはイギリス軍が良好な港湾があるベルギーのアントワープを解放したものの、海とアントワープ間の水路両岸のドイツ軍陣地掃討が難航しており、港湾を補給拠点として使用できていなかった。この状況を打開するため、または「クリスマスまでに戦争を終わらせる」ために9月17日からオランダへの侵攻作戦、いわゆるマーケット・ガーデン作戦が開始された。だが、ドイツ軍の能力を軽視した作戦計画は作戦進行とともに次々と欠陥を露呈、本作戦は多くの犠牲とともに失敗した。 マーケット・ガーデン作戦失敗で、1944年中の終戦は困難となり、冬期間の連合軍の補給のため、アントワープを補給港として使用する必要に迫られたSHAEF司令官ドワイト・アイゼンハワー大将は、第21軍集団(英語版)司令官のバーナード・モントゴメリー大将にアントワープ周辺のドイツ軍掃討を命じた(スヘルデの戦い)。1か月の激戦の後、11月8日にはドイツ軍掃討は完了したが、水路の機雷除去など港湾整備に手間取り、アントワープが補給港として利用できるようになったのは11月末であった。その間、連合軍はノルマンディから補給品を「レッド・ボール・エクスプレス」と名付けた大量のトラックによるピストン輸送や輸送機による緊急空輸で前線に送り届けていたが、この輸送量では全面攻勢はできず、当面の需要すら十分にはまかなえていなかった。ジークフリート線に近づくにつれ、連合軍は軍需物資不足に悩まされ、武器弾薬はおろか、多くの兵士の戦闘服はノルマンディ上陸時の軽装服であり、気温が下がり雪がふっても、冬期戦闘服はほとんど支給されていなかった。 軍需物資の慢性的不足に加え、ジークフリート線に近づくにつれドイツ軍の抵抗も頑強になっており、1944年9月から10月にかけ連合軍進撃は徐々に停滞してしまった。連合軍は限られた物資で限定的攻勢をせざるを得ず、10月1日にはドイツの古都アーヘンに進攻(アーヘンの戦い)、10月22日にはアーヘンを攻略した。11月になるとアントワープ使用のめども立ち、また補給隊や工兵隊の休みない努力によって補給状況に改善の兆しが見え、連合軍はいよいよ本格的攻勢準備に着手する。その準備として、大攻勢の障害となるドイツ・ベルギー国境にあるヒュルトゲンの森に展開するドイツ軍撃破のため、アメリカ軍は単独で大規模攻撃を行うが、地形を利用したドイツ軍の防衛は頑強でアメリカ軍は大苦戦を強いられた(ヒュルトゲンの森の戦い)。 アメリカ軍はヒュルトゲンの森に次から次へ新しい増援を送り込まねばならなくなり、大損害を受けた部隊は休息や再編成のためアルデンヌに送られた。アルデンヌ一帯は両軍ともに積極的な作戦行動が行われていなかったことから“幽霊戦線(ゴーストフロント)”と呼ばれ、アメリカ軍は再編途中や休息中の部隊を配置しており、兵士らの保養のために映画館や、マディソン・スクエア・ガーデンという名称をつけた体育館などのスポーツ施設や、泥風呂につかれるスパなどといった娯楽施設まで設置されていた。ドイツ軍の侵攻直前にはハリウッド女優のマレーネ・ディートリヒも慰問のために訪れている。軍紀も緩み、兵士たちは地元女性とデートしたり、Kレーションに飽きたアメリカ兵が、L-4 グラスホッパーに短機関銃を持って乗り込んで、低空飛行してバーベキュー用野豚狩りをしているという森林監視員からの苦情が第12軍集団(英語版)司令官のオマール・ブラッドレーに届くほどであった。 また、太平洋戦域の戦況もヨーロッパ戦線に大きな影響を及ぼしていた。従来の連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、アメリカ陸軍の大物ダグラス・マッカーサー元帥やアメリカ海軍が、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、アメリカ軍は太平洋上において大規模な2方面作戦を展開していた。さらにマッカーサーは、フィリピンの戦い (1941-1942年)での汚名を返上すべく、フィリピンの奪還を強硬に主張していた。フィリピンには日本軍が大兵力を配置しており、その攻略には太平洋戦線過去最高規模の兵力が必要であったが、ナチス・ドイツ打倒の優先を主張していた大英帝国首相ウィンストン・チャーチルも、この頃にはヨーロッパの戦争は最終段階に入っていると考えており、太平洋方面の戦況に大きな関心を寄せていた。そのような状況で、マッカーサーはルーズベルトにフィリピン奪還を認めさせると、政治力を駆使して174,000名の兵員と700隻の艦艇と多数の航空機を準備したが、この大兵力のなかには、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれていた。アイゼンハワーらヨーロッパ戦線の司令官たちは、太平洋が優先されて、次第に減少していく増援や補給を憂慮する事態と陥っていたとき、ドイツ軍の反撃が開始されることとなった。
※この「連合軍進撃の停滞」の解説は、「バルジの戦い」の解説の一部です。
「連合軍進撃の停滞」を含む「バルジの戦い」の記事については、「バルジの戦い」の概要を参照ください。
- 連合軍進撃の停滞のページへのリンク