豪僧・傑僧として知られる南天棒
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「玉川遠州流」の記事における「豪僧・傑僧として知られる南天棒」の解説
臨済宗の僧 南天棒は、資性剛毅、酒豪として知られる反面、非常に綿密な宗風をもっていた人として、また瑞巌寺に伝わる多くの書画を修理して今に残した傑僧として知られている。 玉川遠州流において、女性の6代岑尾は独身で跡継ぎがおらず、そのため父の5代宗龍が禅の指導鍛練をうけた南天棒に懇願し、仏弟子の槐安(かいあん)を7代宗夢として迎えたことから、南天棒は玉川遠州流にとって別格の僧である。 南天棒は、1839年(天保10年)肥前国上松浦郡唐津(現 佐賀県唐津市)に生まれた。幕末~大正期の近世稀にみる豪僧として知られ、僧名は白崖窟鄧州全忠(はくがいくつ・とうじゅう・ぜんちゅう)。本姓:中原氏、室号:白崖窟、道号:鄧州、諱:全忠。南天棒とは、臨済宗妙心寺第586世、瑞巌寺第124世の別号(ニックネーム)である。鄧州が常に南天の木で作った棍棒(こんぼう)を側(かたわら)におき、修行者を遠慮会釈なくその棒でぶん殴ったことに起因する。南天の太い棒は、鄧州がまだ修行中、日向(ひゅうが、宮崎県)と豊後(ぶんご、大分県)の国境近くのとある村で、ある農家から譲り受けたもの。鄧州の手記に拠れば、「儂(わし)はまだ無名だが、将来きっと出世する。この見事な南天も、たとえ千年の齢(よわい)を保っても、やがては枯れるであろう。それより儂にくれまいか。共に永遠の生命を残すであろう」との情熱にほだされた主人が伐ってくれた南天の長さは6尺余(2m)、太さは直径5㎝もあった。旅の時はそれを杖に突き歩いた。鄧州は南天の棒を常に持ち歩き、36歳と38歳の両年には全国の僧堂(そうどう)を巡り、各老師と真剣法戦を交えた。鄧州の投げかける問答に応えられなければ、天下の老師もこれで打ち据え、修行不徹底の僧たちを震撼させた。また、儀式の時に唱える偈(げ)には必ず南天棒の語句が入っており、いつしか南天棒は鄧州の渾名(あだな)となった。 1885年(明治18年)47歳の時、妙心寺派管長の関無学(せき・むがく)の特命で、麻布の曹渓寺内に東京花園禅院選仏場を創設する。翌年の1886年(明治19年)に山岡鉄舟(やまおか・てっしゅう)が東京市ヶ谷の道林寺内に江湖選仏道場を創設し、南天棒が力量を示す。南天棒の著『南天棒行脚録』の248頁に、「南天棒が江湖選仏道場の禅堂建立に苦しみ、ようやく本堂と方丈を建てたが、借金取りに対し、宗般和尚や宗龍居士(茶道玉川流家元)がその言い訳に困っていた」と記されている。江湖(ごうこ)は、各地から来集した多数の雲水(うんすい、禅宗の修行僧)のこと。末寺間との紛争に混乱する瑞巌寺を立て直すため、旧仙台藩士で日本銀行初代総裁の富田鉄之助と檀徒総代の大宮司雅之輔(旅館経営者)らの要請によって、本山妙心寺長老会議で南天棒が特命派遣され、1891年(明治24年)53歳にして松島の瑞巌寺第124世となり、財政を立て直す。1896年(明治29年)58歳で仙台大梅寺と白石傑山寺を経て、1902年(明治35年)64歳で兵庫県西宮の海清寺に出世する。1925年(大正14年)2月12日、世寿87をもって示寂(じじゃく)。 『提唱碧巌集』、『提唱臨済録』など12書を著作出版、墨蹟10余万枚を揮毫し、禅風の挙揚に努め、「人を作る」の先駆者として、参禅者は日露戦争の陸軍大将 乃木希典(のぎ・まれすけ)と陸軍少将 児玉源太郎(後に大将)、漢詩人の飯村稷山(しょくざん)など3,000人に及ぶといわれる。 鄧州は、南天の棒を、『南天棒行脚録』(中原鄧州/著 平河出版社 1984年)と『南天棒禅話』(中原鄧州/著 平河出版社 1985年)に、1898年(明治31年)60歳の時、もしくは1900年(明治33年)9月、62歳の時、臨済宗最古の修行道場である京都八幡の円福僧堂に奉納したと記しているが、後年2つに切断された南天の棒は、それぞれに「臨機不譲師(きにのぞんでしにゆずらず、真理と悟りの戦いにおいては師たりとも許さん)」の五文字が陰刻され、松島の瑞巌寺と西宮の海清寺にある。
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