豪傑毛谷村六助の伝説
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江戸時代の軍記本『鎮西御軍記』または『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛統治は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に韓国の民間伝承論介伝説では、晋州城攻防戦の際に南江で水死した人物と同一視されている。 大分県中津市山国町毛谷村、福岡県添田町には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓があり、生前この地を離れる時、頭髪を墓に埋葬している(口伝)ことから、逆修塔であることが考えられる。幕末の旅絵師・蓑虫山人(美濃の武士 土岐源吾)が、江戸時代末期の元治元年(1864年)に当地を訪れ、槻村六助の墓として五輪塔の絵を蓑虫山人絵日記の中に残している。 また、墓がある土地には喜登という古民家が建っていたが、平成三年(1991年)の台風により倒壊する。そして、この家が明治以前は『木田』という姓を名乗っており、現在の木田孫兵衛の墓の台座下段右端、木田權三郎がこの家の人物である。 毛谷村集落に唯一残る、享保元年(1716年)の『毛谷村六助畧縁起』には、この地で62歳で亡くなったと伝えられている。 歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もあるが、貴田孫兵衛は加藤清正の書状に名前が出てくることから実在していたことは間違いないであろう。 佐賀県唐津市名護屋には、六助社というお堂がある。朝鮮で討たれた貴田孫兵衛統治は、塩漬けにされて名護屋へ輸送された。そして名護屋に埋葬され、六助社が建ったと言われている。六助社では、足の神様として祀られている。また、名護屋の喜田神社でも、貴田孫兵衛統治は神として祀られている。
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