豊洲・晴海地区の整備
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「東京都港湾局専用線」の記事における「豊洲・晴海地区の整備」の解説
第二次世界大戦後、芝浦側の埠頭は進駐軍によりほぼ接収されてしまった。このために、大戦前から建設が進められていた豊洲埠頭の工事が1949年(昭和24年)から緊急に再開され、1950年(昭和25年)11月17日に石炭埠頭が供用開始された。これに合わせて1953年(昭和28年)7月20日に越中島駅から豊洲石炭埠頭まで延長2,590 mの深川線が開業した。この路線はしばしば豊洲線と呼ばれることもあるが、東京都の正式な名称では越中島から石炭埠頭までを通しで深川線と称している。この路線は、国鉄所有の機関車による運転で使用が開始された。当初は越中島駅が正式には未開業で、国鉄線は小名木川駅までの扱いであったため、小名木川駅分岐の東京都専用線という扱いで運行された。1958年(昭和33年)11月10日の越中島駅正式開業により越中島駅までが国鉄の営業線となり、越中島駅より南側が東京都の専用線として運行されるようになった。 東京都としては、こうした臨港鉄道は国鉄を主体として地元が応分の負担をする形で建設して、国鉄の営業線として運行管理をすることを当初から望んでおり、豊洲埠頭の路線も国鉄に移管し、晴海線は当初から国鉄によって建設してほしいと考えていたが、実際にはこれが実現することはなかった。こうした当初の考えとは逆に、東京都では1955年(昭和30年)から専用線を港湾設備の一部として整備していく方針を固めることになった。臨港線の運営主体をどうすべきか、監督官庁の所管の上からも問題となったことから、関係部局の協議の上で、1956年(昭和31年)7月に、国鉄・民鉄の営業線となっている路線以外は基本的に港湾設備として整備することが決定された。これにより運輸省でも鉄道局ではなく港湾局の所管となり、地方自治体においても交通や建設の部署ではなく港湾の部署の所管とされることになった。 こうして豊洲地区への臨港鉄道が伸びると、そこから分岐させる専用線の建設を希望する会社が続出し、次々に使用者が増えていった。 1955年(昭和30年)3月には、深川線から分岐して豊洲物揚場線(とよすものあげばせん)の最初の区間が開通した。その後順次延長工事が行われ、1959年(昭和34年)3月30日までに深川線分岐 - 豊洲物揚場間1,512 mが全通した。この豊洲物揚場線は深川線の一部として扱われている資料もある。この豊洲物揚場線は、将来的に東雲運河を横断して東雲、10号地(有明)方面への延長の起点となることも想定されていた。 豊洲地区では、富士倉庫運輸、大倉商事、豊洲鉄道運輸、東京ガスの4社が専用線を分岐しており、またこれ以外の会社による専用線の第三者使用もあった。深川線の主要な貨物は、コークス、石炭、鋼材、鉄鉱石、化学原料、雑貨などであった。 晴海地区の接収が解除されると、晴海運河を晴海橋梁で越えて晴海埠頭まで晴海線が建設され、1957年(昭和32年)12月17日に深川線分岐 - 晴海埠頭間が開通した。晴海線も、開通時は国鉄の機関車による運行であった。晴海地区では、小野田セメント、日本水産、日東製粉の3社が専用線を分岐しており、豊洲同様に第三者使用も行われていた。晴海線の主要な貨物は、新聞巻取紙、輸入小麦、大豆、セメント、雑貨などであった。 当初は国鉄の機関車による運行が行われていたが、まず1958年(昭和33年)5月8日から晴海における仕訳作業が東京都の手に移管された。東京都では、この業務を社団法人東京ポートサービス協会に委託した。1959年(昭和34年)4月1日には保線作業が東京ポートサービス協会委託となり、1960年(昭和35年)4月1日からは越中島駅から先の豊洲・晴海地区における運行すべてが東京ポートサービス協会によって行われるようになった。この後、組織の変更により1981年(昭和56年)4月1日から財団法人東京港サービス公社、1988年(昭和63年)4月1日から財団法人東京港埠頭公社が東京都港湾局専用線の運営を実施している。 1966年(昭和41年)10月1日には国鉄越中島駅の改良工事が完成し、小名木川駅で実施されていた貨車の仕訳と列車組成が越中島駅で実施されるようになった。 豊洲地区に立地した東京ガスのガス工場は、石炭を処理して都市ガスを生産し、副産物のコークスを出荷するという枠組みで稼動していた。このコークスの出荷は、1971年(昭和46年)時点で越中島駅の貨物取扱量の34%を占めるほどのもので、豊洲地区臨港線の主たる貨物であった。コークスはカーバイドの製造メーカー向けで、北陸本線の魚津駅まで毎日無蓋車45両の「とよす号」という専用列車が運転されていた。 1967年(昭和42年)の最盛期には年間170万トン(芝浦地区を含む)の貨物を輸送し、深川・晴海の両線で1日22往復の貨物列車が運転されていた。
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