誕生から国旗制定へ至る経緯とは? わかりやすく解説

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誕生から国旗制定へ至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:53 UTC 版)

大韓民国の国旗」の記事における「誕生から国旗制定へ至る経緯」の解説

太極旗初め国旗として使用したのは朝鮮国李氏朝鮮)である。だが、李氏朝鮮太極旗自国国旗とするまでの経緯については史料毎に差異があり、不明確な点が残っている。 1875年江華島事件勃発した時点で、李氏朝鮮にはまだ国旗無かったその後李氏朝鮮国旗制定具体的な問題として浮上したのは、1880年日本から帰国した信使金弘集朝鮮語版)らが、清国駐日公使館参事官黄遵憲によって書かれた『朝鮮策略』を持ち帰ってからである。『朝鮮策略』はロシア南下政策に対して朝鮮アメリカ連合すべきとする書物であるが、ここで初め朝鮮の国旗図案についての言及があり、朝鮮が清の属国であることを強調するため、清国国旗黄龍旗)をそのまま朝鮮国旗として使用することを主張した。そこで、李氏朝鮮国旗制定にあたり、どの色の龍旗良い清国助言求めたところ、北洋大臣李鴻章から「朝鮮国王御旗である『龍を描いた四角い旗』(畫龍方旗)が清の黄龍旗似ているのでこれを国旗として使用すればよい」という詔書下賜された。その際、五爪龍(爪が五つの龍)は天子中国皇帝)の象徴であるため、冊封国ある朝鮮は旗に描く龍の爪四つにするよう具体的に指示されていたが、李氏朝鮮最終的に龍旗国旗として用いなかった。 具体的な国旗図案について最初議論が行われたのは、1882年清国から米朝修好通商条約締結斡旋するため訪朝した馬建忠が、条約の締結式で使う李氏朝鮮国旗巡って李朝官吏会談した時である。その筆談内容記録した清国問答』によると、5月22日旧暦4月6日)に行なわれる米朝修好通商条約締結式にあわせ、李朝官吏李應浚(朝鮮語版)が金弘集指示を受け前日国旗図案作成していた。だが、締結当日馬建忠は申櫶(朝鮮語版)と会談し李應浚の国旗案と黄龍旗そのまま朝鮮国旗とする案を否定した上で朝鮮人服色である民の白、臣の青、王の赤にちなんだ「白底青雲紅龍」の図案提案した実際に朝鮮国旗として馬建忠提案した旗が締結式で使われたかは不明だが、締結式後の5月27日旧暦4月11日)に李朝側は青雲紅龍作るのに手間がかかるため、赤地青と白交わった円の図案はどうかと馬建忠提議し、これに対して馬建忠から個人的意見として地は白地中央に半紅半黒の太極の印を置き、その周囲朝鮮八道象徴する八卦配した太極図図案提唱されている。この馬建忠による太極八卦国旗デザイン李朝側に受け入れられ、後の大韓民国国旗雛形となっていった事から、韓国歴史研究家である韓洪九は「太極旗デザイナー馬建忠」としている。 朝鮮の国旗として用いられた旗を最初に確認することができるのは、1882年9月朴泳孝訪日した時である。同年7月壬午事変機に李氏朝鮮日本との間で済物浦条約締結し、その規定従い謝罪使節特命全権大使朝鮮修信使)として朴泳孝らを日本派遣したその際朴泳孝は約4ヶ月間に渡る訪日中の出来事日記(『使和記略』)として記しており、その中に太極旗図案変更経緯に関する記述がある。『使和記略』によると、9月20日旧暦8月9日)に仁川から日本船籍明治丸乗り日本へと向かった朴泳孝らは、当初馬建忠提唱した太極文様周り八卦描いた太極図の旗を持っていた。しかし、朴泳孝船内イギリス領事のW. G. アストンイギリス人船長ジェームス対し八卦太極文様描いた太極図見せ国旗としての出来について相談した所、船長から「八卦が複雑で区別しにくく他国がこれを見て作るのに不便である」と助言受けた。そのため、朴泳孝八卦から四卦を削り残りの四卦を45°傾けて四隅配した図案提案し船中大・中・小3本太極旗作ったという。9月25日8月14日)に神戸到着した一行宿泊先西村旅館初め完成した太極旗掲げ10月3日8月22日)には太極旗小本と共に国旗制定本国報告したとされる。 ただし、日本日刊新聞時事新報」は1882年10月2日付の紙面でこの太極旗紹介しているが、太極旗国旗とした経緯について『清国問答』とは異な内容掲載している。 「...馬建忠朝鮮の國旗支那に從ひ三角形靑地に龍を書くべし本國支那黃色を用るども朝鮮支那東方當る邦たるを以て東は靑色貴ぶの意により靑地用ふべしと指示したるに國王大に之を憤み決し支那國旗に倣ふべからぬとして四角形の玉色地に太極の圖(二つ巴繪)を靑赤にて書き旗の四隅東西南北易卦附けたるを自今朝鮮の國旗定むる旨沙汰せられたりとあり...」 大意 「...(清国の)馬建忠が「朝鮮の国旗清国国旗倣って三角形の青字に龍を描いたものにすべきである。清の国旗黄色であり、朝鮮は清の東方位置する国であるため、東を表す青色を旗の地色すべきである。」と指示した。これに対し国王高宗)は大い憤慨し絶対に清国国旗真似ないと言って、「玉色地に二つ巴太極図青色赤色描き四隅東西南北を表す易卦配置した旗を今後朝鮮の国旗定める」と決められた。...」 また、2004年発見され1882年7月発行冊子海上国家の旗』(Flags of Maritime Nations) 第5版 にはCorea朝鮮)の「ensign」(エンサイン)として太極の印と四つの卦から成る旗が収録されており、『使和記略』に描かれ太極旗制定の経緯1882年9月)と時期合わない韓国では、「『海上国家の旗』の「ensign」は李應浚が創案し米朝修好通商条約締結式で使われ朝鮮初の国旗である。」と民間の研究者主張しており、韓国代表する百科事典である斗山世界大百科事典は「江華島条約締結後李朝1881年忠清道観察使だった淙遠(이종원)が提出した太極八卦図式最初国旗定めた。だが、実際に初め使用され太極旗は、米朝修好通商条約1882年)の際に通訳李應浚が金弘集の命を受け作成したのである。」としている。韓国政府行政自治部)も「ensign」を太極旗原型であると推定している が、『海上国家の旗』には旗の図柄しか掲載されていない上、朝鮮側でも関連史料が見つかっていない為、「ensign」の制定時期制定由来使用方法については一切推測の域を出ていない。 いずれにせよ朴泳孝訪日後は「太極文様四つの卦」という基本的な旗の図柄変更為されず、翌1883年旧暦1月27日3月6日)、高宗王命太極図四掛絵柄からなる太極旗国旗として制定し統理交涉通商事務衙門指示によって八道四都朝鮮全土)へ国旗に関する通知なされた。これにより、太極旗正式に朝鮮の国旗として使われるようになった

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