誕生から副帝登用まで(331年 - 355年)
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「フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス」の記事における「誕生から副帝登用まで(331年 - 355年)」の解説
331年または332年、コンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウス (Julius Constantius) とその妻バシリナ (Basilina) の間に生まれた。コンスタンティヌスにとっては甥に当たる。337年、おそらくは皇帝コンスタンティウス2世の陰謀により家族を暗殺された。ユリアヌスとその兄コンスタンティウス・ガッルスは幼少のため見逃された。ユリアヌスは(おそらくガッルスも共に)ビテュニアに住まう母方の祖母のもとに預けられ、事実上軟禁された状態で養育された。軟禁生活では、キリスト教会の『聖書』朗読者となる一方で、かつてバシリナの家庭教師であった宦官マルドニオスによって、ギリシア・ローマの古典や神話も教えられていた。 おそらく342年になると、ユリアヌスとガッルスは皇帝領のマケッルム (Macellum) へ移された。マケッルムでは、その名が意味する「囲い地」のとおり外部との接触は極端に制限され、ユリアヌスは兄とともに奴隷の仕事を手伝いながら6年間を過ごした。ただし、読書に関しては自由を与えられていたため、カッパドキアのゲオルギウス (Georgius) の蔵書を用いて勉学に励んでいた。この中には異教の古典作品も多数含まれており、ゲオルギウスの死後、ユリアヌスはその保護を依頼している。 348年、2人はコンスタンティノポリスに召還され、6年間の追放が終わった。ガッルスが宮廷に留め置かれる一方、ユリアヌスは勉学に関しての自由が認められた。そこで、コンスタンティノポリスで修辞学を学んだのち、ニコメディアへ留学した。この地で哲学者リバニオス (Libanius) の講義を、間接的にではあるが受けることができ、ユリアヌスは新プラトン主義の影響を強く受けるようになる。 351年、ガッルスは東方のサーサーン朝の脅威に対するため、副帝としてコンスタンティウス2世に登用された。その一方で、ユリアヌスは変わらず勉学に勤しみ、ペルガモンにいたアエデシオス (Aedesius) や、エペソスのマクシムス (Maximus) など、小アジアの新プラトン主義の大家のもとを訪れている。この経験から、キリスト教の優越性を声高に叫ぶ信徒や伯父たちのキリスト教庇護に疑問を感ずるようになり、異教への回心が決定的となった。ユリアヌス本人も、自身の回心は351年に始まったとしている。副帝即位直前の夏には、アエデシオスの弟子プリスクスを訪ねてアテナイに赴いている。 354年、副帝であったガッルスがコンスタンティウス2世に処刑された。さらに皇帝はユリアヌスに反抗の疑いをかけ、メディオラヌム(現ミラノ)の宮廷に呼び出した。ユリアヌスはそのままコンスタンティウスの監視下に置かれたが、皇妃エウセビア (Eusebia) が唯一の擁護者として皇帝に働きかけたため、約半年後に疑いが晴れ、解放された。 メディオラヌムを離れたのちは、ビテュニアの邸宅に寄り、そこからすぐにギリシアへと発った。アテナイにて「異教徒」たちに交じりながら、キリスト教徒の修辞学者プロハイレシオスから手ほどきを受けていた。だが、間もなくコンスタンティウスに召還され、再びメディオラヌムの宮廷に向かうことになる。 355年後半、コンスタンティウスは東方のペルシアだけでなくガリアでの問題にも直面していた。このガリア側の問題を解決するため、ユリアヌスにはガッルスに代わる皇帝権力のパートナーとしての役割が求められるようになった。こうした背景から355年11月5日、メディオラヌムにてユリアヌスは副帝に任じられる。この登用は、以前に監視から解放されたとき同様、エウセビアの進言によるところが大きかった。副帝就任と同時に結婚した。相手はコンスタンティウスの妹ヘレナで、ユリアヌスから見れば従姉にあたる女性だった。
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