誕生から即位まで
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宝正4年(929年)8月24日、文穆王銭元瓘の九男として杭州功臣堂に生まれる。兄は3代王銭弘佐・4代王銭弘倧。母は呉漢月。 天福4年(939年)12月、内牙諸軍指揮使・検校司空となり、兄の銭弘佐の代には検校太尉を務めた。 天福12年(947年)3月、台州刺史として台州に赴任する。この際、現地の法眼宗の僧の天台徳韶に面会した際、早く杭州に戻った方がよいと勧められ、10月に杭州に戻る。 同年12月、急激な軍部の改革を恐れた宿将の胡進思により銭弘倧が廃位に追い込まれ、異母弟である銭弘俶が呉越王に擁立された。
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誕生から即位まで
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「カールマーン (ハンガリー王)」の記事における「誕生から即位まで」の解説
ゲーザ1世の長男として生まれた。父ゲーザが1077年4月に崩御した後、「王の息子より年上である王家の年長者が後継となる」というハンガリーの伝統にのっとって、ゲーザの弟ラースロー1世が即位した。カールマーンと弟アールモシュは叔父の宮廷で育てられた。 王女ピロシュカ(のち東ローマ皇帝ヨハネス2世コムネノスの皇后となる)しかいなかったラースロー1世は、自分の後継者にアールモシュを望んだ。そして、カールマーンを司教にしようとした。カールマーンは聖職者の伝統に従い教育され、その結果として文人と呼ばれるようになったのである。 年代記に従うと、ラースロー1世はカールマーンをエゲルかナジヴァーラドの司教に任命した。しかし、カールマーンは神に奉仕する生活を望んでいなかった。1095年、ラースロー1世が公式にアールモシュを自身の後継者に決めると、カールマーンはポーランドへ逃亡した。カールマーンがポーランド貴族の支援を受けてポーランド軍を率いて帰国すると、7月29日にラースロー1世が崩御した。そのすぐ後、カールマーンはアールモシュが兄の統治を承認するという同意をとりつけた(しかし、兄からハンガリー王国の1/3に相当する領土をもらっていた)。カールマーンは1096年初めに即位した。
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