誕生から名誉革命まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:18 UTC 版)
「ジョン・チャーチル (初代マールバラ公)」の記事における「誕生から名誉革命まで」の解説
1650年、清教徒革命にともなうイングランド内戦中に王党派のジェントリ、ウィンストン・チャーチルとエリザベス・ドレーク夫妻の子としてデヴォンシャーで生まれた。姉アラベラは父とアーリントン伯ヘンリー・ベネットの知己で宮廷に仕えヨーク公ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ2世)の愛人となり、2人の弟ジョージとチャールズはそれぞれ海軍、陸軍に入った。また、バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズは母方の曾祖母の弟で、イングランド王チャールズ2世の愛人バーバラ・パーマーは母の又従妹に当たる。 1660年に王政復古が実現してチャールズ2世が即位した後、姉アラベラが王弟のヨーク公の寵愛を受けるようになったことと、父とアーリントンの縁で16歳の時、ヨーク公配下で軍人となった。1668年から1670年はモロッコのタンジール(当時イギリス領)の守備隊に加わり、帰国後の1672年からは同盟国フランスが起こしたオランダ侵略戦争に従軍し、三十年戦争におけるフランスの英雄テュレンヌ元帥の知遇を受けてその軍才を見出された。後に敵となるヴィラールとブーフレールとも陣中で知り合い、末期にはヨーク公の甥で娘メアリー(後のメアリー2世)の夫でもあるオラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)の連絡役を務めた。姉が産んだ甥ジェームズとも後に敵として対峙することになる。 チャーチルは1674年にイングランドに戻り、1678年にヨーク公の宮廷の女官サラ・ジェニングスと結婚した。王位排除法案でヨーク公がイングランドから亡命した時はチャールズ2世との連絡役を務め、1682年にはスコットランド貴族に叙せられ、ロードの爵位を得た。1685年にチャールズ2世が死去し、ヨーク公がジェームズ2世として即位すると、チャーチルは新国王の信任を受け、イングランド貴族に叙せられて男爵の爵位を与えられた。同年にチャールズ2世の庶子モンマス公ジェイムズ・スコットの反乱鎮圧に尽力したが、カトリック信仰のジェームズ2世とは違いプロテスタントを堅持していたため、次第にジェームズ2世に不信感を抱いた。 1688年、ジェームズ2世が議会の支持を失い、オラニエ公ウィレム3世が軍を率いてイギリスに侵入すると、ジェームズ2世はチャーチルを軍の司令官に任命し、侵略者を打ち破るよう命じた。しかしチャーチルをはじめとする軍隊は主君を裏切ってウィレム3世に従い、名誉革命が実現した。1689年、ウィレム3世とその妻メアリーがウィリアム3世・メアリー2世として即位すると、チャーチルは擁立の功績を持って枢密顧問官に任ぜられ、マールバラ伯爵に叙せられた。 大同盟戦争が勃発した1689年にスペイン領ネーデルラント(現ベルギー)のワルクールの戦いでフランス軍を破る戦果を上げ、翌1690年にフランスの侵略を防ぐためアイルランド南部を押さえることを主張、認められ直ちにコーク、キンセールを落として任務を果たした。しかし、ウィリアム3世からはあまり信頼されず、大陸に亡命中の旧主ジェームズ2世と秘密裏に通信を続けている嫌疑により1692年1月10日に罷免され、5月4日にはウィリアム3世の暗殺計画に関わっているとしてロンドン塔に投獄されている。すぐに無罪と分かり6月15日に釈放、1694年に宮廷への出仕を許されたが、要職に就けないまま雌伏の時を過ごした。1696年に発覚したウィリアム3世暗殺未遂事件で逮捕された男が関係者としてマールバラの名前を挙げたため再度疑われる災難にも見舞われている。
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