解散権を巡る歴史的経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 20:28 UTC 版)
「衆議院解散」の記事における「解散権を巡る歴史的経緯」の解説
戦後、明治憲法を連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)と協力して改正するにあたり、第1回目の会合は1945年10月、高木八尺、松本重治、牛場友彦が参加して「マッカーサー・近衛会談」として行われ、高木はこのとき駐日大使ジョージ・アチソンから示された12の指示項目の中に、「国会の解散権は、政府が政治的コントロールの手段として用いてはならないこと」を規定するよう指示があったことをメモしているが、これらは事実上は米国国務長官ジェームズ・F・バーンズの指示であった。なお、国会の解散権は、国家総動員法案が野党から激しい批判を浴びていた時期にも利用されており、近衛がこれによって同法案を成立させたという経緯があった。 GHQ施政下にあった1948年(昭和23年)に衆議院を解散する際、当時の第2次吉田内閣は「69条所定の場合に限定されない」という見解を採っていたのに対し、野党は「69条所定の場合に限定される」という見解を採り、対立していた。そのような中で、憲法草案の策定に携わっていたGHQは衆議院解散を69条所定の場合に限定する解釈を採ることが伝えられ、協議の上、野党が内閣不信任案を提出して形式的にそれを衆議院で可決し、69条所定の事由により解散する方法を採った(馴れ合い解散)。この時の解散詔書には「衆議院において、内閣不信任の決議案を可決した。よって内閣の助言と承認により、日本国憲法第六十九条及び第七条により、衆議院を解散する。」と記載されたが、この文は内閣の事務当局がGHQの意向を察して作成したものといわれる。 1951年(昭和26年)頃になると学界では解散権をめぐる論争が活発化したが、この頃、既に政界では野党側が早期解散へと主張を転換しており憲法69条に解散を限定する見方は大きく後退していた。 実際、1952年(昭和27年)に第2回の解散をしたときは69条所定の場合ではなかった。この解散で衆議院議員の地位を失った苫米地義三は解散の無効を主張し、歳費請求訴訟を提起したが、その上告審において最高裁判所は、いわゆる統治行為論を採用し、高度に政治性のある国家行為については法律上の判断が可能であっても裁判所の審査権の外にあり、その判断は政治部門や国民の判断に委ねられるとして、違憲審査をせずに上告を棄却した(苫米地事件)。この第2回解散の際の詔書には「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する。」とあり、以後は、内閣不信任決議案が可決された場合であるか否かにかかわらず、この方式によることが確立するに至った。 このように、解散を69条所定の場合に限定する見解は、実務上は現在では見られない。もっとも、内閣に自由な解散権があるとしても、総選挙を通して民意を問う制度である以上、それに相応しい理由がなければならないと理解されており、国会法第74条に基づく内閣に対する質問に対し、内閣から国会に提出された答弁書では、新たに民意を問うことの要否を考慮して、内閣がその政治的責任において決すべきものとの認識が示されている。 保利茂が衆議院議長在職中時代に衆議院法制局の意見を参考に「解散権について」という「(現行憲法下における解散は)内閣に解散権があるといっても、明治憲法下のように内閣の都合や判断で一方的に衆議院を解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解していないもので適当ではない」として解散権の濫用を戒めている。 憲法学者の佐藤功は保利見解について次の四つの場合を限定的に列挙して七条解散はこれらに限られるべきとする。 69条にいう不信任決議可決又は信任決議否決という形ではなくても、予算案や内閣の重要条件が否決されたり審議未了となったりして、実質的に不信任決議可決等と同一視してもよい場合。 長期の審議ストップ等で、国会の機能が麻痺した場合。 党利党略で不信任決議案などが提出されないままで、国会・国政が渋滞を続けた場合。 前回の総選挙の時に争点とはなっていなかった重大案件が提起され、あらためて国民の判断を求めるのが当然とされる場合。
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