解散権と政局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 20:28 UTC 版)
衆議院の解散は、事実上の解散権限を持っている内閣総理大臣の伝家の宝刀と呼ばれる。 内閣・与党の支持率、及び選挙の勝算を考慮した結果として、国会閉会時に衆議院が解散されることが適切だと政治的に判断される場合には、臨時国会を召集し、その冒頭で衆議院を解散する(召集時解散、冒頭解散)。 佐藤栄作は「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」と、小泉純一郎は「首相の権力の最大の源泉は解散権と人事権」と語り、衆議院解散権は内閣総理大臣の強大なる権力の源泉とも言える。ただ、首相の権力基盤が弱い場合には、解散権が党内抗争などによって抑制されるケースもあり、解散権を行使できなかった内閣総理大臣も存在する(三木おろし、海部おろし、倒閣を参照)。 衆議院解散しそうな政局のことを「解散政局」と呼んだり、風に例えて「解散風」と呼んだりすることがある。加藤紘一は「解散の時期に関して政治家は権力から遠ければ遠いほど疑心暗鬼になり、近ければ近いほど操作したくなる」と語っており、政界でも「内閣総理大臣は、衆議院解散と金利については嘘を言ってもいい」と表現されるほど、さまざまな政局に応じて、衆議院解散権が牽制に使われたり、不意打ちに行使されたりしても「当然」という認識が浸透している。2012年(平成24年)11月14日に、野田佳彦は首相として党首討論の中で衆議院の解散日(11月16日)を明言したが、これは異例のことである。
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解散権と政局
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衆議院が予算の先議権を有することは大日本帝国憲法でも規定されていた。そのため、初期議会において、政党は憲法の運用を通じて政治的影響力を増大させ、憲法発布当初は超然主義を採っていた藩閥政府と激しく対立した。藩閥政府はこうした政党の攻勢に対抗するため衆議院を解散した。最初の衆議院解散は第1次松方内閣によって1891年(明治24年)12月15日に行われた。さらに、任期満了または先の解散から1年以内に再び衆議院を解散することもしばしば行われた。 加藤高明内閣以降には元老が内閣総理大臣を奏薦する際に憲政の常道が重視されるようになり、衆議院第一党の内閣が倒れた際には衆議院第二党の党首が奏薦されるようになった。衆議院第二党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することが多かった。 その後、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてからは、内閣総理大臣は軍人など政党の党首以外から奏薦されるようになった。陸軍首相の林内閣において最初の予算が成立した直後、1937年(昭和12年)3月31日に行われた解散には、重要法案の阻止を図ったという理由以外には特に理由がなく、政党からは「食い逃げ解散」と呼ばれて批判された。この解散は政党勢力を弱体化させるために行われたといわれているが、各政党が議席を伸ばす結果となり、林内閣は同年5月31日に総辞職した。 ポツダム宣言受諾後の1945年(昭和20年)12月18日に行われた解散はGHQの幣原喜重郎内閣への指令によるものであり、終戦解散又はGHQ解散と呼ばれた。この解散を受け、当初翌年1月に行われるはずだった総選挙は3ヶ月延期され、立候補予定者の資格審査(軍国主義者の排除)の後、1946年(昭和21年)4月10日に実施された。 大日本帝国憲法下での最後の解散は第1次吉田内閣(吉田茂首相)において1947年(昭和22年)3月31日に行われ、新憲法解散または第2次GHQ解散と呼ばれた。この解散もGHQの指令にもとづくものであった。
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