融和への反転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 13:52 UTC 版)
「ユークトバニア連邦共和国」の記事における「融和への反転」の解説
1995年3月25日、ベルカ連邦は周辺諸国に宣戦布告しベルカ戦争が勃発した。オーシアを中心とする周辺諸国は連合軍を結成して反攻し、大陸外の国家であるユークトバニアも連合軍に参加した。同年6月6日、連合軍の逆侵攻で南ベルカのほとんどを喪失したベルカ軍は進退窮まり、7つの核爆弾を南北ベルカを隔てるバルトライヒ山脈で炸裂させた。核兵器を用いた自爆作戦はオーシアとユークトバニア両政府に大きな衝撃を与え、ベルカ戦争による教訓と経済的打撃により、ユークトバニアとオーシアの間で融和政策が展開されるようになった。 同年12月25日、多国籍クーデター組織の国境無き世界が蜂起し、連合軍によって12月31日に鎮圧された。国境無き世界には反オーシア感情の持ち主であるユークトバニア空軍所属のユーリ・ダシコブ等複数の軍関係者が参加していた。クーデター後、ユークトバニアを含む連合軍当局によって逮捕された。一部の者は情報提供を条件に司法取引によって服役を免れた者がいるほか、証言者安全保護法によって保護されている者もいる。 1996年4月20日、FCUの大統領は小惑星ユリシーズがユージア大陸を中心に衝突することを公表した。ユークトバニアとオーシアは、FCUが中心となって進める隕石迎撃計画に参加する意思はあったものの、戦後復興に費やされる人員や戦後補償に関連する経済的理由から十分な援助はできず、両国は国家体制の立て直しを急務とした。1999年の始めにはユークトバニアとオーシアの関係が目に見えて修復され、冷戦が終結した。同年7月8日にユリシーズはロシュ限界を超えた。ユージア大陸ではストーンヘンジを中核とした迎撃網で隕石を破砕したが、迎撃しきれなかったものはユージア大陸およびアネア大陸に落着した。また、微小隕石群は軌道上を漂い、スペースデブリと化した。 2000年代に入ってから、セリョージャ・ヴィクトロヴィッチ・ニカノール首相は、体制改革を推進する情報公開としてグラスノスチを展開した。ユークトバニアは徐々にではあるが、秘匿していた情報の公開を進めた。 2003年夏、ユリシーズの破片が落着したことによる難民問題により、ユージア大陸ではISAFとエルジアの間で大陸戦争が勃発した。ユークトバニアとエルジアは正式な軍事同盟を結んでいなかったが、以前より非公式な武器の輸出入などの相互支援活動をしていたとされる。 2004年にオーシアでハーリング政権が成立すると、両国の関係はより緊密になっていった。オーシアは冷戦時にミサイル迎撃兵器として開発が計画されていた大気機動宇宙機の設計案をもとに、両国共同でスペースデブリの除去を目的としたアークバードが建造された。基本的にはオーシアでの設計案をベースに開発が進められたが、船体上部の弾道ミサイル迎撃用レーザー(ABL)はユークトバニア製の対微小隕石用高出力レーザーへと変更され、船体下部のABLユニットは両国の協議のもと除外対象となり設計変更された。冷戦時の戦略防衛構想(SDI)に基づいて設計された兵器を平和利用へ転換する両国の政策は、近隣諸国に多大な影響を及ぼした。 ユークトバニアとオーシアの国交正常化の足がかりとして、恒久的宇宙ステーション開発計画が進められた。オーシア航空宇宙局とユークトバニア連邦宇宙庁によって、オーシア領のバセット国際宇宙基地にて、全長12kmのマスドライバーを共同開発した。マスドライバーを境に南側はオーシア、北側はユークトバニアの優先開発エリアとされた。マスドライバーはアークバードへ物資を供給する再使用型宇宙往還機(SSTO)の射出橋となった。2005年頃からアークバードはスペースデブリの除去を始め、2008年までに静止軌道上では約80%の整備を終えた。 2008年、宇宙空間のアークバードにてG7サミットが開催された。各国代表はオーシアとユークトバニアの協調路線を支持し、民主主義と市場原理に基づく経済、および社会正義に向けて進歩を加速するとした。軍縮と核不拡散に関しても議題に上り、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効と核不拡散努力の継続、ならびに余剰兵器プルトニウム問題への取り組みを始めとする、第二次戦略兵器削減条約(START-2)への移行を進めるとした。また、ユージア大陸を筆頭とする難民問題についても、責任を共有するパートナーシップへの道を切り開くことで同意した。
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