苛烈な異端弾圧
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「パウルス4世 (ローマ教皇)」の記事における「苛烈な異端弾圧」の解説
カラファ一族の追放後、パウルス4世はそれまでの行いを反省して自己批判すると改革に邁進したが、方法は異端審問を重視する恐怖政治だった。教皇は強烈な反ユダヤ主義者で、彼にとってユダヤ人は神から見捨てられた存在であり、キリスト者の愛を受けるに値しない民族であった。1555年には回勅『クム・ニムス・アブスルドゥム』によってローマに住むユダヤ人をゲットーに追い込んだ。ユダヤ人の生活は制限され、夜間は外出禁止になった。ゲットーの建設は以後の教皇たちにも受け継がれ、イタリアの諸都市でユダヤ人は差別を受けることになった。19世紀になってもピウス9世の保守的な政策のため、ローマのゲットーは西欧に最後まで残ったゲットーとなった。 異端審問で告解を異端摘発や社会統制と捉え、異端告発は日常となり、修道院に属さない修道士は100人以上逮捕された。禁書目録を制定したのもパウルス4世であり、1558年にデジデリウス・エラスムスの著書も含む禁書目録に承認を与えた。 パウルス4世はイエズス会とも軋轢を起こしている。初代総長イグナチオ・デ・ロヨラからは異端に容赦ない姿勢を恐れられていたが(若い頃に異端を疑われた経験があったため)、教皇とスペインの戦争でロヨラが死去した1556年から第2代総長ディエゴ・ライネスが選出された1558年まで2年かかった。イエズス会の規則に介入し聖務日課の朗唱と総長の任期を終身から3年に変更するように言い渡し、ライネスは教皇存命中は命令に従ったが、教皇の死後は口頭命令だったことを理由に死後は守る義務が無いとの根拠を掲げ、どちらの命令も撤回した。 また、1558年に即位したイングランド女王エリザベス1世に対して非常に冷淡であり、その王位の正統性に疑義を呈していたため外交交渉を拒否した。異端審問を強化し、徹底した厳格さで改革に取り組み、反対する枢機卿たちを投獄までしたため、改革に乗り気でなかった枢機卿たちの肝を冷やすことになった。特にジョヴァンニ・モローネ枢機卿を異端の疑いでサンタンジェロ城へ投獄したことや、ユリウス3世によりイングランドへ教皇代理として派遣されていたポールも異端の疑いをかけて解任したことは失策であり、対抗宗教改革は遠のきイングランドのカトリック復帰の機会も無くなった。 教皇は音楽や美術に理解のあった2代前のユリウス3世とは対照的で、システィーナ礼拝堂の楽長であったジョヴァンニ・ダ・パレストリーナらは、わずかな年金で解雇された。また、ミケランジェロの作品でシスティーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』に裸体が多数描かれていることを嫌悪し、腰巻を付け足させた。 1559年8月18日、83歳の高齢で死去。ローマ市民は教皇が死んだ途端暴動を起こし、異端審問所を破壊したり囚人達を解放したり、教皇の銅像を破壊した。史上最も憎まれた教皇だと言われたが、教皇の信頼が失われていたためこのような事態が起こり、パウルス4世の治世は成果が何も無かった最悪の時代だった。死後は反対派のピウス4世が次の教皇に選出、カルロ・カラファとパリアーノ公ジョヴァンニ・カラファ(英語版)兄弟の裁判と両名の処刑、モローネ枢機卿など前教皇時代の罪人の釈放、禁書目録の修正と異端審問の制限を行い、親ハプスブルク家政策を採りスペイン・神聖ローマ帝国と関係改善、トリエント公会議を召集して対抗宗教改革を実行するなど、パウルス4世の政策の見直しと対抗宗教改革を推し進めていった。 不評が多かったパウルス4世だったが、優秀な人材を見出していた。それはドミニコ会士アントニオ・ギスリエーリで、教皇になると引き立てて出世させ異端審問所長官に任命した。ピウス4世の死後ギスリエーリはピウス5世に選出、トリエント公会議の決議を実行して対抗宗教改革に貢献、死後に列聖された。 日本人初のヨーロッパ留学生としてローマを訪れた鹿児島のベルナルドは1555年にこの教皇と対面、ローマ教皇に謁見した最初の日本人となった。
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