統領ナポレオン
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「ナポレオン・ボナパルト」の記事における「統領ナポレオン」の解説
統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。 まず、イタリアの再獲得を目指した。当時のイタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つの有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主であったが、これらは既に1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝のあと、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻ってきて、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアはリュネヴィルの和約に応じて、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。 ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃を受けた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し、通貨と経済の安定を図った。 1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」などの近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。 教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。また、交通網の整備を精力的に推進した。 フランス革命以後、敵対関係にあったカトリック教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約(コンコルダート)を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず有能の士を軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。 ナポレオンが統領政府の第一統領となったときから彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。 さらに、フランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗。前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内外の情勢のなか、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態を推し進めることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
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