給人格・奏者格の郷士・特権的商人
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「給人格・奏者格の郷士・特権的商人」の解説
特に有力な者として、依田専(仙)右衛門家(奏者格)、黒澤嘉兵衛家(給人格)、小山立三家(奏者格)、高橋平四郎家(奏者格)の4家があった。この4家には熨斗目が許された(正式な武士の衣装を着用することを認めるという意味である)。安政7年正月の小諸城登城時の史料(長野県立史料館蔵)によると、高橋平四郎は郷中で第4席であり、黒澤嘉兵衛が第3席である。これが、慶応年間になると、高橋平四郎は郷中で第3席であり、黒澤嘉兵衛が第4席となり、高橋平四郎が奏者格となっている(東京大学史料編纂所蔵の小諸藩留書)。従って、高橋平四郎が、安政7年以降に班を進めたことがわかる。黒澤嘉兵衛が失脚して第4席に降格されたものではなく、高橋氏が班を進めたことによる相対的な理由で、黒沢氏が第4席に降格となったのである。 依田氏は、小県郡の依田庄を本貫とするが、近世初頭に小諸城主となった依田氏の起源については諸説がある。小諸城主依田氏(賜姓・松平氏)は徳川家康により上野国藤岡城主に領地替えとなったが、庶流の一つがこれに随従せずに土着・帰農したのが、小諸領内八幡村(佐久市八幡)依田氏の家祖である。この依田氏(依田仙右衛門)は近代に入ってから、長野県内屈指の寄生地主・高額納税者として農地解放まで著名であった。隣家に化政期に分家として分出された依田専左衛門家(馬廻り格)がある。 黒澤氏は、小諸藩主青山氏の郡奉行100石の出自であるが、私財を投じて八重山用水を開発して黒澤新田1300石(東御市・北御牧村)の基礎としたほか、近隣の農地1000石に恩恵を与えた。開発に注いだ愛着から藩主青山氏の領地替えに随従せず土着・帰農したが、宝永2年(1705年)藩主牧野氏から藩士に準じる身分を与えられ、宝暦6年(1756年)八重山用水取締方となり、約145石の免祖地と、5人扶ち持ちを与えられ、同時に当主の弟を分家として分出させて、この家系(黒澤平太夫家)も士分に準じることが認められた。 小山氏(小山立三家・通称又四郎)は、佐久郡柏木村(小諸市柏木)に本拠を持ち、その財力を背景に藩政期から新田開発に取り組み寄生地主に成長した。 小諸領内の小山氏には有力な3系統があり、柏木・小山立三家(奏者格)のほか荒町・小山九左衛門家(馬廻り格)、与良・小山清左衛門家(馬廻り格)があった。この3家を結びつける知られた系図は、一切存在していない。小山氏の先祖は与良城主・与良氏といわれるが、与良城は中世の小規模な古城であり、城主に関する一次史料が現存していない。 与良氏は、武田信虎庶子の一条右衛門太夫信竜の配下として、村上氏と対立した佐久地方の土豪である。与良城主与良氏は安田氏が城主になったのを契機に与良氏を称したのが起源ともいわれる。 しかし中世から佐久地方には与良氏が根を張り、与良城主を小林氏とする刊本(小諸温故)も存在するなど有力な異説があり、諸説紛々の状況にある。 小山氏の遠祖は甲斐から移住してきたとする説と、中世から佐久地方で勢力があった与良氏の末裔とする説があるため、小山立三家、小山九左衛門家、小山清左衛門家は姓が同じでも、まったく異流の可能性もある。特に与良・小山清左衛門家では甲斐から移住してきたものと信じられている。また小山九左衛門家は、17世紀4代将軍治世後半、近隣(松井)から、小諸城下に移り住んだというが、遠祖は、永禄12年に平原の住人・小山全真の次男であったという。八満村・乗瀬の新田開発に尽力。先祖は開発領主か。 小諸城主仙石氏が慶長13年(1608年)望月の八幡神社を、遷社したことで、小山清左衛門家は、城下から与良に移された。同家の分家出身者として政治家小山松寿と、小山清太郎家(馬廻り格)・小山勝治家(馬廻り格)があるほか120の分家を分出したといわれている。 高橋氏は、荒町のよろずや(なんでも屋)の出自である。はじめ小諸城(藩)の納入業者であったが、信任を得て藩主一家の呉服・日用品をはじめとする各種需要品を調達するようになった。高橋氏は、御用商人としてよりむしろ製糸業の先駆者として著名で、維新後に長野県議会副議長となった。明治42年6月に成立した小諸領内旧家録(山本清明校閲・小山政道編)によると、高橋平四郎は馬廻り格であったとされているが、一次史料である東京大学史料編纂所蔵の小諸藩文書(留書)によると、奏者格とあるため、二次史料である小諸領内旧家録の記述は明確な誤りである。同書は同書が成立したころの高橋家当主、良三郎の名をあげて、「他日必ず中興を成すことを信じる」など言葉を選びながら編集時には没落していたことを伺わせる著述となっている。このため小諸領内旧家録から孫引きしたと推察される著書や、記事には、高橋平四郎の家柄・格式が馬廻り格であったとしている。高橋平四郎家の分家に高橋甚右衛門家(馬廻り格)がある。郷士である高橋六左衛門家とは本末関係はない。また木野主計著の研究論文(国学院大学研究紀要収載)には、高橋平四郎を高橋原四郎と誤記されている。
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