給人席・100石級家臣
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「給人席・100石級家臣」の解説
家老に統率される馬上資格を有する平士(へいし)・平侍(ひらざむらい)である。軍事・警備部門を担当した。あくまで格式上、馬上が許されているに過ぎず、登城や戦時にあって実際に、馬上となったかは、別の話である。給人席以上は従者を持ったが、給人席は従者の数は1名とされた。格式が給人席で各種役方の職務を与えられることもあった。戦時には、給人席の家臣は、軍事・警備部門を直接担当しているか、いないかに関係なく主力部隊を構成した。藩主の庶子が家臣取り扱いとなると、まず給人席とすることが、ほとんどであった。また給人席は、各種の元〆職や、城門警備の現場責任者・門番守衛長に就任することもあった。 元禄15年、小諸入封・城受け取りに際しての行列では、給人席のほとんどは、馬上で小諸城大手門前まで乗り付けたことになっている。しかし、譜代小藩のこの階級で馬を常時飼って、登城・行列にあたって馬乗りの士となるのは、収入上、不可能といわざるを得ない。小諸入封時、給人席の収入は、江戸町奉行所配下、与力の手先となる袴すら、履くことが許されない町同心などと大差がない(町同心の収入は80俵5人扶持から、30俵2人扶持が多いが、与板から小諸に入封したときの藩主牧野氏の給人席は、馬上資格がある一方で、家禄50石から80石であった)。一般論としては、参勤交代などの行列では、在所近郊や、江戸の入り口である板橋周辺で、馬を一時的に借り受けて、その場だけの体裁を整え、メンツを保ったとされるが、小諸藩の対応を具体的に記述した史料が、残っていないため不詳。公式(建前上)の参勤交代の様子は、小諸市誌に記載がある。 小諸入封に随従した給人席の家臣の実態は、かくのように厳しいものであった。この階級の士が「将」とは言えないことは、説明するまでもない。小諸入封後、家臣たちには、加増があったとみられ、給人席は、実質100石クラスの士となった者が多い。
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