第二次世界大戦に至る列強間の建艦競争
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「建艦競争」の記事における「第二次世界大戦に至る列強間の建艦競争」の解説
ワシントン条約が有効期限を迎えるため、更なる軍縮を実現せんとして1935年には第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催された。しかしそこに日本の姿はなく、条約体制からの脱退を宣言していた。このため、米英仏三国で締結された第二次ロンドン条約は質的制限を主とした限定的なものとなり、日本やドイツの動向を見据えたエスカレータ条項も用意された。 1936年末、日本の脱退宣言によりワシントン条約は失効し、海軍休日は終わりを告げた。以後第二次世界大戦に至るまでの数年間は無条約時代と称され、各国とも新たな建艦競争にひた走ることになる。 欧州においてはアドルフ・ヒトラーの再軍備宣言から後、ドイツは各方面に領土的な野心を露わにした。オーストリア、チェコ、ポーランドと各国への圧力を強める中、当然に英仏との対立は強まっていく。対抗手段としてドイツが選択したのは、外交的にはイタリアやソ連との連携であり、大規模な軍拡であった。海軍に関しては1948年までにイギリス本国艦隊に対抗可能な戦力を構築する「Z計画」をスタートさせ、戦艦6隻と巡洋戦艦3隻を中核とした大艦隊の建設を推し進め始めた。 イギリスは「新標準艦隊(The New Standard Fleet)」構想を策定し、戦艦20隻、航空母艦15隻、巡洋艦100隻体制を10年間で構築せんとした。その主たる仮想敵はドイツと、極東で勢力を増す日本であった。 その日本は自主的かつ適正な国防所要兵力標準として戦艦12隻、航空母艦10隻以下を定め、海軍国防所要兵力整備十年構想に基づいて軍拡を開始した。1937年の第三次海軍軍備補充計画では戦艦2隻、航空母艦2隻等66隻を建造している。この時点で日本は、過度の建艦競争を予想していなかった。 しかし対抗するアメリカは、経済恐慌からの立て直しの一環として建艦計画もその主要な柱の一つとしており、日本に数倍する建艦をスタートさせた。1934年の第一次ヴィンソン案こそ条約保有枠を満たす程度の比較的小規模なものだったが、1938年に無条約時代最初の計画として成立した第二次ヴィンソン案は海軍力25%増強を謳い、戦艦3隻と航空母艦1隻等の増強を決めた。既存計画と合計するとその規模は日本の4倍にも達するものであり、想定以上に過激な反応を見た日本は新たな対抗手段を求められた。 1939年、当初予定から1年繰り上げて第四次海軍軍備充実計画が策定され、戦艦2隻、航空母艦1隻等80隻の建造を開始した。この計画ではアメリカの建艦に互することの困難さを認める兆候が早くも現れており、量的な対抗は不可能と考えられ始めていた。 だがアメリカは手を緩めなかった。折から第二次世界大戦が勃発したこともあり、1940年の第三次ヴィンソン案ではさらに海軍力25%増強を目指した。当案は議会の査定で11%増強に抑制されたが、それでも戦艦2隻と航空母艦3隻等を追加するもので、対抗上日本も第五次海軍軍備充実計画の策定で戦艦3隻、大型巡洋艦2隻、航空母艦3隻等第三次と第四次を合計したものにほぼ等しい大計画を立案し1942年からの着手を目指した。そして1940年7月、ドイツのフランス攻略を受けて発表された最大の建艦計画が日本を震撼させた。両洋艦隊法、スターク案と呼ばれた同計画は戦艦7隻、大型巡洋艦6隻、航空母艦18隻など216隻、海軍力実に70%増強を目指すもので、当時の連合艦隊総力に匹敵するという膨大な計画は、もはや日本の追随をまったく許さなかった。対抗案として1944年スタートの第六次海軍軍備充実計画が検討され、戦艦4隻、大型巡洋艦4隻、航空母艦3隻などの建造を構想してはいたが、第五次計画の実現さえ危ぶまれる情勢の中、その実現はほとんど不可能と思われた。急速に開き始めた日米間の戦力差に危機感を抱いた日本では、戦力比が優位なうちに開戦を目指す論が勢いを増し始める。着手時期の関係で1941年には一時的に日米戦力比は対米8割を超えるまでに改善すると見込まれていたからで、一連の流れは太平洋戦争開戦の少なくとも一因を担ったと評されている。特に「翔鶴」「瑞鶴」2隻の正規空母の戦力化時期は、12月という開戦時期を決定する直接の動機の一つとなった。
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