第三夜 強制収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:30 UTC 版)
「99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「第三夜 強制収容所」の解説
長吉がFBIに連行されて4日後の12日。100人もの日系人がFBIに連行されたことを知ったともは心労で体調を崩し床に伏せていた。一郎が街から戻ると、心ない落書き文字が書き殴られた外壁、割れた窓や倒された郵便箱を見ても何もできない無力感を覚えていた。日系人店は打壊しを受け、日系人銀行は閉鎖の憂き目に遭い、歩いていたり外に出て来た日系人は暴行を受けるという街の様子を伝え、萎えた気力を何とか奮い立てて何としてでも生き抜く覚悟を示した。日系米人会では大統領宛に日系二世の米国忠誠宣言を電報で伝えられたが、米西海岸地域への日本軍進攻の警戒もあって日系人の夜間外出禁止令や意図的停電が起こる中、翌1942年2月、大統領令は軍司令部に対して、居住日系人立ち退き命令を発することを任意に許可するとした。翌月、日系人協会主催の集会に参加した一郎・次郎・しのぶは米政府の決定した一週間以内の強制退去措置に代表者の山岸を相手に憤りを表したが、かと言ってどうすることもできず、集会を終えてから一郎は財産の保全管理の委託先を探すのに奔走したが誰にも相手にされなかった。強制退去前に長吉の残した全ての動産不動産が山岸の仲介によりジェームズに相場の二倍とは言え僅かな応札額で買い取られたことに一郎はともの前で詫びつつも悔しがり、日本と三国軍事同盟した独伊の移住者らには何故か同じ処遇を殆ど執らない米政府に怒りを向けた。翌日窓を塞いだSLに丸二日間乗せられた平松一家を始めとする日系人の一行はどことも知れぬ場所の使われなくなった競馬場厩舎を宛がった収容施設で下車させられた。そこで一家は偶然にも野中と再会し、本式の収容施設ができるまでの仮収容施設であることを知らされ、ともは収容生活の先行きに不安を抱いていた彼らに対して長い休暇だと思えばいいと発想の転換をしてみせた。複雑な心境にもなったが、長吉は岡田らとともに抑留所に入れられてはいるが元気であるとの知らせも降ってきた。 一方、開戦後の日本ではしづとさちはそれぞれの預かり先や学校でも一層辛い思いをしていた。しづは叔母の嫁ぎ先で女中扱いを受け、さちは担任教師の高木から昼食を支援されていたが、高木が反戦行為で憲兵に捕らわれ唯一の味方を失った。それでもさちはめげることなく、自分の食い扶持を確保すべく実力で預かり先の嫌がらせを撥ね退けるまでになった。 6月、主に西海岸内陸山地で正式な収容施設が竣工し始めた中で3番目にできた、約一万人収容の中規模のマンザナーの収容施設にバスを連ねて平松家ら一向は移動した。隙間だらけで砂が吹き込む粗雑な建屋で、平松家はロサンゼルスで庭師を営んでいた小宮太助と弘の親子との同居生活となった。太助以外の家族は日本に帰国していたが、弘は日本との二重国籍でもあって兵役を受けることからアメリカへ戻ってきていた。施設でのオリエンテーション集会では日系人協会の山岸から施設の構成あらましや各大小区域単位での自主管理や自治がある程度容認されていることを告げられ、収容者たちはさほど息苦しい生活ではないようだと安心できたが、反感を抱く一部の人々はアメリカの犬として山崎を襲撃し、騒動を引き起こしたが何食わぬ顔で翌朝を穏やかに迎えた。次郎は荒地の耕作と野菜の作付け、一郎としのぶは学校整備と教育、ともは食堂作業、太助は庭園作りなど、各々が収容所生活に活路を見出し始めていた。翌1943年2月、かつて日系人協会から打電された忠誠宣言などなかったかのように米当局は17歳以上の収容者に対して忠誠登録を行い、そのうち質問27は「いかなる地域でも米国を守り、そのために日本軍とでも戦えるか」、質問28は「米国以外に忠誠を誓わず、たとえ日本の天皇に対しても忠誠を誓わないか」と問い詰めることで、回答によってはアメリカに残れるか日本に送還されるものであった。一世のともにとっては丸裸にされて日本に帰るわけにはいかない、アメリカで失ったものを取り返すまでアメリカで生活していく、一郎と次郎には戦争には行ってほしくない、との強い意向があったが、一郎は財産を失った父母がこの先アメリカで暮らしていくには自分もアメリカに残って支えていかなければならないと考えていた。
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