登録までの経緯
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日本政府は「東西文明交流に影響を与え、自然と調和した文化的景観を形作っている、世界に類を見ない鉱山である」として、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の世界遺産登録を目指し、2001年に世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載し、2006年1月にユネスコ世界遺産委員会に推薦書を提出した。 2007年5月、各国から推薦された世界遺産登録候補を審査するユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、遺跡の「顕著な普遍的価値」の証明が不十分であることを理由に「石見銀山は登録延期が適当」と勧告した。それを受け、日本政府や地元は「世界遺産への登録は極めて厳しい」と判断したが、ユネスコの日本政府代表部は、委員会構成国の大使や専門家に、勧告に反論する110ページにわたる英文の「補足情報」を送るなどして、石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず、狭い坑道を掘り進んで採掘するという、環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介し、巻き返しのための外交活動を展開した。 結果、「21世紀が必要としている環境への配慮」がすでにこの場所で行われていたことが委員の反響を呼び、6月28日、世界遺産委員会の審議により、世界遺産(文化遺産)としての登録が満場一致で決定された。日本の世界遺産登録としては14件目であり、文化遺産としては11件目、産業遺産としてはアジア初の登録となる。 石見銀山が世界遺産に登録された際、海外ではその価値を疑問視する報道が相次いだ。例えばイギリスの『インデペンデント紙』は、1970年代まで廃屋が建ち並んでいた大森地区は地元企業中村ブレイスの中村俊郎らによって作られた街並景観であることや(アダプティブユース#例を参照)、イコモスは登録基準のいずれも満たしていないとしたが外交官を巻き込み金銭を惜しまない凄まじいロビー活動を展開したことを指摘した。 石見銀山の登録に向けて日本側の代表として外交活動を率いた、近藤誠一ユネスコ大使は、2007年9月8日に、島根県大田市で開かれたシンポジウムの中で、銀山周辺に残る自然が逆転登録の決め手になったことを明かしている。近藤大使はICOMOSによる登録延期勧告を受け、各国の政府代表などに対し、石見銀山が伐採した分だけ植林していたことなど、推薦書に記載していた自然に対する配慮の歴史(自然と人間の共生)を積極的に説明したところ、政府代表らの反応が良く強い手ごたえを感じたという。なお、石見銀山における植林史に関しては脇田晴子の研究によるところが大きい。 また、採掘→精錬→運搬→搬出という産業としての一連の流れを表現している点も評価された。
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登録までの経緯
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当初、2003年には登録される見込みであったが、当時の駐日中国大使の武大偉から登録の引き延ばしと同時登録を要請された画家の平山郁夫が中朝両国の仲介を行った。その経緯で、両遺跡は2004年の同時登録という形になった。北朝鮮と中国の間に、高句麗地区の領土問題が存在することが改めて認知された。
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登録までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/27 01:45 UTC 版)
山車(山・鉾・屋台)が巡行する祭としては、重要有形民俗文化財、重要無形民俗文化財の両文化財に指定されている5件の祭礼の内、すでに2009年(平成21年)に「京都祇園祭の山鉾行事」及び「日立風流物」が無形文化遺産として登録されていた。日本政府は2011年(平成23年)に同分野の「秩父祭の屋台行事と神楽」及び「高山祭の屋台行事」の登録を提案したが、無形文化遺産の登録数が増加して既に登録された行事と同じ分野の文化財を単独で登録することが難しくなっており、これら2件は「情報照会」とされて登録が見送られた。また「高岡御車山祭の御車山行事」も、この後に続き単独での登録を要望し、関係各所に働き掛けていたが難しい情勢となった。 そこで、2014年(平成26年)3月13日には「京都祇園祭の山鉾行事」及び「日立風流物」を拡張する形で、「秩父祭の屋台行事と神楽」及び「高山祭の屋台行事」、「高岡御車山祭の御車山行事」も含む、国の重要無形民俗文化財指定の祭礼行事32件をまとめて「山・鉾・屋台行事」として2015年(平成27年)の登録を目指し提案し、2014年(平成26年)3月27日に正式に登録申請を決定、登録の可否は最短で2015年(平成27年)秋頃の予定だったが、6月4日に登録申請を行ったところ、各国より61件もの登録申請が寄せられたため、登録審査は2016年の秋頃になるとユネスコより連絡を受け審査は先送りの結果となった。 その後2015年(平成27年)3月2日には「大垣祭の軕行事」が、新たに重要無形民俗文化財に指定され、「山・鉾・屋台行事」にも加え18府県33件として同月に再提案し、2016年(平成28年)11月30日、エチオピアのアディスアベバで開催されていたユネスコ無形文化遺産の保護に関する条約(無形文化遺産保護条約)第11回政府間委員会において、代表一覧表への記載(いわゆる無形文化遺産登録)の決議がなされた。
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登録までの経緯
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「高句麗前期の都城と古墳」の記事における「登録までの経緯」の解説
当初、2003年には登録される見込みであったが、当時の駐日中国大使の武大偉から登録の引き延ばしと同時登録を要請された画家の平山郁夫が中朝両国の仲介を行った。その経緯で、両遺跡は2004年の同時登録という形になった。北朝鮮と中国の間に、高句麗地区の領土問題が存在することが改めて認知された。
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