生い立ちから大学進学まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:03 UTC 版)
「堀江貴文」の記事における「生い立ちから大学進学まで」の解説
1972年10月29日、福岡県南部の山間部に位置する八女市に長男として生まれる。一人っ子。 父親はトラック販売会社の佐賀支店に勤めていたサラリーマンで、地元の進学校を卒業後はそのまま地元の企業に就職し、定年まで勤め上げることなく早期退職した人物であった。好きな野球チームが負けると途端に機嫌が悪くなって手を出すこともあり、貴文は庭の木に縛り付けられることもあった。夫婦仲はあまりよくなく出かけるときはいつも父親とだけだった。母親は何度も勤め先を変えており最終的に経理系の仕事に落ち着いた。気性が荒く、「せからしか!(うるさい)」と言って無理を言うこともあった。 5歳の頃、友達の家に行くのも時間がかかり、家には他にまともな本がなかったことから百科事典を読むことに熱中する。20冊セットのもののうち、宇宙、科学、歴史などの興味のある項目を中心に読んでいた。小学1年生から6年間、母の決定で柔道を習い始めることになる。警察の柔道道場に通い、片道30分かけて自転車で道場に行き、1時間半の猛練習をすることが週3日続いた。理不尽な指導や体罰もあり、ひたすら苦痛だったと語っている。 テストや教科書が簡単すぎてつまらなくなり、算数のテストで10分で解き上げクラスメイトの答案の採点をしていた。 ここが自分の居場所ではないと感じていたころ、小学3年生の担任が久留米の全教研という進学塾に行くことを勧めた。そして久留米大学附設中学校に居場所があると言った。それまで塾はお金持ちの子供か勉強のできない子供が行くところと思っていたが担任の勧めもあり、4年生から通うことになる。 久留米での生活は、塾のある日は柔道を休むことができ、刺激的な友人と出会え、美味しいものも食べられ、塾の講師陣の教え方もうまく授業のレベルも高かったため、勉強が楽しくなったと語っている。 1985年、久留米大学附設中学校・高等学校に進学。このときの中学・高校時代の同級生に、古賀篤、三木雄信、孫泰蔵がいる。これと同時期に映画「ウォー・ゲーム」を観たことをきっかけにコンピュータと出会う。この年はつくば万博が開催されたこともあり、子どもたちの科学やSFに対する関心は高まっており、貴文も科学雑誌を読み漁っていた。そこで両親を説得し、合格祝いに日立のMSXパソコン「H2」を買ってもらう。毎日深夜までプログラミングに明け暮れる。 その後、初心者用のMSXパソコンでは満足できなくなり、両親から20万円を借りて「PC-8801mkⅡFR」を買う。借金は新聞配達で返済した。 中学2年生のとき、当時としては珍しいCAIによる英語スクールでパソコンを使用していたところ、塾講師からすべてのパソコンを日立からNECの新しいパソコンに入れ替える際に、教材システムの移植作業をやらないかという話を受けた。これを受け入れ、約1か月かけて完成させることで10万円の報酬を受け取った。 ますますコンピュータに熱中したしたことで、当時の標準言語であったBASICだけでなく、より高度な言語も習得していくことにより、これまでよりも複雑なプログラ厶まで組めるようになっていった。一方で、勉強は疎かになってしまい、入学当時トップ10クラスだった成績は高校進学時には学年202人中199番まで下がってしまった。また同時期にはパソコンを取り巻く環境に幻滅したことでコンピュータからも離れてしまう。 高校在学時に同級生の多くは九州大学への進学を考えていたが、同様に進学した場合、実家からの通学を強制される可能性があるので、こうした環境から脱出するため東京に行くことを決心する。しかし、私立である早慶は経済的に難しく、国立でも一橋大学では両親が知っているか怪しいことから、両親でも知っていて説得材料になる大学、東京大学に行こうという結論になった。その後猛勉強の末に現役で東京大学に合格する。
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