生い立ちから初ヒット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:19 UTC 版)
「デヴィッド・ボウイ」の記事における「生い立ちから初ヒット」の解説
1947年1月8日、イギリスのロンドン南部ブリクストンにケント出身でウェイトレスをしていたマーガレット・マリー(英語: Margaret Mary、1913年 - 2001年)と、ヨークシャー出身で子供のためのチャリティー団体バーナード・ホームズ(英語版)で広報活動をしていたヘイウッド・ステントン・ジョーンズ(英語: Haywood Stenton Jones、1912年 - 1969年)の間に生まれた。本名はデヴィッド・ロバート・ヘイウッド・ジョーンズ。一家は、ロンドン南部のブリクストンとストックウェル(英語版)の境界に近い、40 Stansfield Roadに住み、ボウイは6歳になるまでストックウェルの幼児学校に通っていたが、1953年に一家はブロムリーの郊外に引っ越す。 子供の頃から、音楽好きの父親が買ってくるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、プラターズ、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャード、エルヴィス・プレスリーなどの、アメリカのポピュラー・ロック音楽に親しむ。 ボウイは、異父兄であるテリー・バーンズ(英語: Terry Burns)の影響でモダンジャズに関心を持ち、特にチャールズ・ミンガスやジョン・コルトレーンにあこがれた。14歳になった1961年に、母親はプラスチック製のアルト・サックスを贈り、その後さっそく地元のミュージシャンにレッスンを受ける。 1962年、ボウイは重傷を負う。学校でガールフレンドを巡る喧嘩を起こし、その際に彼の友人のジョージ・アンダーウッド(英語版)が左目を殴ったために、4か月の入院と数度にわたる手術をその左目に受ける羽目になった。結果として医師は、ボウイの視力は完全に回復しそうもなく、左目の知覚能力は不完全で、常に瞳孔が散大した状態であり続けることを確認した。ボウイの虹彩の色が左右で違うのは目を殴られたためとの説があるが、先天性の虹彩異色症によるものである。この一件にも関わらず、二人の友達づきあいはそれからも続き、アンダーウッドはボウイの初期のアルバムのアートワークを制作した。 1962年ボウイが15歳の時に、プラスチック製のアルト・サックスを卒業して、本物の楽器を扱うようになり、彼にとっての最初のバンド「コンラッズ(英語: Konrads)」を結成した。このバンドではギターかベースを担当し、主な演奏場所は若者の集まりか、あるいは結婚式であった。バンドのメンバーは概ね4人から8人の間で、中にボウイとガールフレンドを取り合ったアンダーウッドも居た。 1964年6月5日に「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・キング・ビーズ(英語: Davie Jones with the King Bees)」名義で最初のシングル「リザ・ジェーン (英語: Liza Jane)」を発表。しばらくはヒットに恵まれず、「ザ・マニッシュ・ボーイズ(英語: the Manish Boys)」「ディヴィー・ジョーンズ・アンド・ザ・ロウアー・サード(英語: Davy Jones & the Lower 3rd)」などと名を変えたが、モンキーズのボーカリストであるデイビー・ジョーンズと紛らわしいことから、1966年4月のシングル「Do Anything You Say」から使い始めた「デヴィッド・ボウイ」でやっと芸名が定着することになる。このボウイの名前は19世紀に活躍したアメリカの開拓者であるジェームズ・ボウイと、彼が愛用していたナイフであるボウイ・ナイフから取られた。 1967年6月、デビューアルバム『デヴィッド・ボウイ』を発表。アルバム製作中にチベット仏教に傾倒し、チベット難民救済活動を行うチベット・ソサエティに参加している。同年9月に短編映画『イメージ(英語版)』(1969年、イギリス)に出演が決定し、その撮影の際にリンゼイ・ケンプと出会っている。 ボウイはロンドン・ダンス・センサー(英語版)でのケンプのダンス・クラスに習い、ケンプの下でコンメディア・デッラルテなどから学んだアバンギャルドとパントマイムによってドラマティックな表現を身につけた。 1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリースした。
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