生い立ちから共産党入党まで
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「アルヴァロ・クニャル」の記事における「生い立ちから共産党入党まで」の解説
コインブラで父アヴェリノ・エンリケ・ダ・コスタ・クニャル(1887年 – 1966年)と母メルセデス・シモンエス・フェレイラ・バレイリニャス(1888年 – 1971年)との間に三男として生まれる。父は貴族家クニャル・パトリシオ家の血を引くブルジョワジー出身の弁護士で、母は敬虔なカトリック教徒であった。 1931年、リスボン大学法学部在学中に、当時非合法であったポルトガル共産党に入党。1935年には初めて訪ソ、モスクワで開かれた第7回コミンテルン世界大会に出席し、1936年24歳にしてポルトガル共産党中央委員会委員となる。しかし翌年初めて逮捕される。 獄中からソ連の中絶非合法化を支持する内容の卒業論文を大学へ提出し、学位(法学)を取得(卒論審査員の中に後の首相マルセロ・カエターノがいる)。また、リスボンのコレジオにて数ヶ月間教鞭も執ったこともあり、教え子の中には1974年のカーネーション革命後政敵となり、後に大統領に就任したマリオ・ソアレスがいる。 1941年から1949年までは地下活動を余儀なくされ、共産党の事実上の指導者となった。1949年には再び逮捕、10年以上にわたる獄中生活の末、1960年にペニシェ監獄から脱獄する。なお、当時のサラザール政権は、ソ連の潜水艦がペニシェ沿岸に停泊し、クニャルの脱獄を支援したと主張している。
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生い立ちから共産党入党まで
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「胡錦濤」の記事における「生い立ちから共産党入党まで」の解説
1942年12月21日、上海に誕生し、江蘇省姜堰市で育つ。曽祖父の胡永源が商売の為に故郷を離れて江蘇省に移り住んだことから、胡錦濤もこの地に移った。父の胡増鈺は泰州姜堰高校を卒業後、上海の小学校で教員として働く。同地で江蘇州東台出身で南通女子師範学校卒業の李文瑞と出会い、1941年に結婚し、翌年の12月に胡錦濤が誕生している。胡は長男であり、その下に2人の妹(胡錦蓉・胡錦萊)がいる。胡錦蓉は江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事(副会長)を務め、胡錦萊は泰県にて商業関係の会社に勤務している。 生活苦のため、一家は1948年に上海から泰州に戻る。胡増鈺夫妻は地元の小学校で教員をしながら、茶の販売も続けていた。7歳のときに母が死去し、胡は妹2人とともに泰州の祖母のもとに引き取られた。胡は物静かな子供で、よく1人で本を読んでいたという。1949年の毛沢東による中華人民共和国の建国以降も、父は茶の販売による収入で生活費の不足を補った。経営手腕が乏しかったために店員さえも雇えず、家族はあまり裕福では無かった。胡増鈺の身分は「小営業主」(農民や労働者よりも身分が低いが、地主や資産家のようなブルジョアよりはずっと高いという)と決定した。この身分が幸いして息子の胡錦濤は大学入学及び中国共産党への入党を認められた。 1956年、毛沢東の指導下で中国政府は工業と商業の国有化政策を実施し、各地の私営企業主は個人所有の商店を国や集団へ売却させられた。胡増鈺の店は泰州市日用雑貨会社に合併され、月給30元の経理係として雇われた。数年後、毛沢東は知識人や幹部に地方の農村部で肉体労働に就くよう呼びかけた。胡の2人の妹は泰県の農村部に移住し、父・胡増鈺も泰県の農村部にある日用雑貨会社に転勤した。胡増鈺は文化大革命で告発され(同時に身分の低い血統であったこともあり)、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた。文化大革命後、父は泰県の農村にて病没した。当時甘粛省で仕事をしていた息子の胡錦濤は、泰県に戻って父の葬儀を執り行った。遺骨は祖父の胡永源と同じく、故郷の龍川に埋葬された。その位牌は、胡氏一族の廟に祀られている。
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