生い立ちから即位まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:10 UTC 版)
「バハラーム5世」の記事における「生い立ちから即位まで」の解説
バハラーム5世は400年頃に誕生した。彼はヤズデギルド1世とユダヤ教の信徒集団の長(英語版)の娘のショーシャンドゥフト(英語版)との間に生まれた。リチャード・フライ(英語版)は、ヤズデギルドとユダヤ人族長の娘との結婚は「おそらく民話」であるとしている。バハラームは幼いころからヒーラのラフム朝(英語版)の宮廷でヌゥマーン1世(英語版)(在位:390年 - 418年)の庇護を受けて育った。ネルデケは、意見の不一致が原因でバハラームが父親と争いを起こし、ヤズデギルドにより追放されたのではないかという説を述べた。ヌゥマーン1世はサーサーン朝の宮廷から派遣された教師をバハラームに付け、バハラームは法律、弓術、馬術を学んだ。 サーサーン朝の強力な王であったシャープール2世(在位:309年 – 379年)の死後、貴族と神官団はサーサーン朝の統治を蔑ろにして影響力と権力を増大させ、420年1月21日に殺害されたヤズデギルド1世を含む複数の王を擁立、廃位、殺害した。彼らは殺害されたヤズデギルド1世の息子達が王位につくことを阻止しようと努めた。ヤズデギルド1世の長男でアルメニアを統治していたシャープールはすぐにサーサーン朝の首都クテシフォンへ向かい、シャープール4世として王位についたものの、彼はすぐに貴族の手によって殺害されてしまい、バハラーム4世の息子であるホスローが王として擁立された。 バハラームはアラビア砂漠に滞在中にヤズデギルド1世の死の知らせを受けた。彼は貴族たちの決定に反発し、ムンズィール1世(英語版)(ヌゥマーン1世の息子、在位:418年 – 461年)に軍事的な支援を要請した。ムンズィール1世は支援に同意し、彼とバハラームは大軍を引き連れクテシフォンへ向かった。そしてそこでバハラームは父のヤズデギルドのような統治は行わないことを貴族たちと約束した。『シャー・ナーメ(王の書)』によって伝えられているよく知られた伝説によると、バハラームは王冠と王の衣装を二頭のライオンの間に置き、この野生の動物を殺して取り戻した者がペルシアの王として認められるべきだと持ちかけた。 ホスローはこの提案から手を引くことを選択したが、バハラームはこの試練を乗り越え王位を獲得した。バハラームは、以前のサーサーン朝の王たちに対して信用を置けなかった貴族たちに不信感を抱いていたため、代わりにゾロアスター教の神官団から支援を得ることを選んだ。彼は貴族の手によってではなく、神官長(モウベド(英語版))の手によって即位した最初のサーサーン朝の王であった。
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