生い立ち〜フランス革命戦争
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「ジャン=バティスト・ジュールダン」の記事における「生い立ち〜フランス革命戦争」の解説
1762年、ジュールダンはフランスのリモージュに外科医の子供として生まれた。 1778年、16歳にも満たない頃に一兵卒としてフランス王立軍に入隊。アメリカ独立戦争に参加した。同戦争では主にサバンナ包囲戦や、西インド諸島戦役で活躍したが、高熱(おそらくマラリア)を発症した為、1782年にフランスに帰国した。 1784年、ジュールダンは余りにも高熱が長引いた為、一旦軍を辞職した。その後、故郷に戻り、1792年まで服屋を営んだ。 1792年、共和政府が樹立するとアメリカ独立戦争での経験を買われ、義勇兵として召集、すぐに少佐の階級を授与された。その後、義勇軍を率いて11月6日に起こったジュマップの戦いでの勝利に貢献した。 1793年3月18日に起こったネールウィンデンの戦いでは敗北こそしたものの、抜群のリーダーシップを周囲に見せつけた。そして、5月27日に旅団長に就任、2ヶ月後には早くも師団長に就任した。9月22日には戦争相カルノーの抜擢で北部方面軍司令官に任命された。 北部方面軍司令官に就任したジュールダンは、すぐに軍を率いてフランス北部の都市モブージュに向かった。同地ではコーブルク将軍指揮下のオーストリア・ネーデルラント連合軍約60,000人がフェラン将軍指揮下のフランス軍約25,000人を包囲していた。モブージュは戦略上非常に重要な拠点であった為、カルノーは自らジュールダンに随行し軍事作戦を主導した。両軍は10月15日、16日にワッティニーで激突した。フランス軍は初日において大敗を喫したが、2日目は倍近い兵力、そして兵士達の決死の闘魂精神を頼りに徐々に前線を押し戻し、遂にはオーストリア軍に退却を余儀無くさせた。こうしてワッティニーの戦いはフランス軍の勝利に終わった。後年、カルノーは「ワッティニーでフランス軍が勝利出来たのは、我が軍事作戦が功を奏したからだ。」と自書内で書き綴っている。しかし、カルノーが軍事作戦を主導したのは大敗を喫した1日目のみであり、2日目にフランス軍が勝利出来たのはジュールダンが単独で戦術指揮を担い、最後まで戦い抜いたからである。カルノーは自身の戦術指揮能力の無さを痛感したのか、戦後すぐにパリに帰還した。 1794年1月10日、ジュールダンはカルノーから無謀な軍令を突きつけられた為、断固拒否した。カルノーは直様ジュールダンに逮捕状を出し、彼を法廷に突き出した。しかし、証言者として出廷した派遣議員らがカルノーの主張に含まれる矛盾を指摘し、ジュールダンを巧みに擁護した為、何とか死刑を免れることが出来た。しかし、ジュールダンは一旦職務を解かれ、故郷に送還されることとなった。 同年5月、ジュールダンは政府の意向で早くも軍務に復帰することとなった。そして、北部方面軍・モーゼル軍(ライン川中央軍)総勢約80,000人の指揮権を与えられた。 ジュールダンはすぐさま北方のナミュールに向かって機動、6月12日にオーストリア兵3,000人が立て篭もるシャルルロワを包囲した。 同年6月17日、シャルルロワの救援に駆けつけたオーストリア・ネーデルラント連合軍にフーグレッジェで攻勢を仕掛けられた。ジュールダンは敗北寸前まで追い詰められたが必死に戦い抜き、逆転勝利を果たした。連合軍は北方に退却した。 同年6月25日、ジュールダンはついにシャルルロワを陥落させた。3,000人のオーストリア兵はフランス軍に投降した。 同年6月26日、オーストリアのコーブルク将軍は前日にシャルルロワが陥落したことに気付かず、連合軍52,000人を率いて同地に向かいつつあった。ジュールダンは急いで戦列を整え、迎撃に向かった。両軍はシャルルロワ近郊のフルーリュスで激突した。前半は連合軍が大きく有利だったものの、中盤でクレベール将軍が連合軍右翼を指揮するオレンジ公に猛攻を仕掛け、ついにオレンジ公のネーデルラント軍を戦場から駆逐した。これにより、右翼の戦力を丸ごと失った連合軍は大きく弱体化。好機を得たジュールダンは自ら中央軍を率いて攻勢を仕掛け、逆襲することに成功した。これによりフランス軍の戦術的勝利が確実となった。コーブルク将軍は急いで攻撃を中止、南部ネーデルランド(現ベルギー)方面に向かって退却を開始した。こうしてフルーリュスの戦いはフランス軍の大勝に終わった。ジュールダンは急いで追撃態勢に転じた。 同年7月10日、ジュールダンはコーブルク将軍を追撃中にブリュッセルに入城した。さらに7月12日にはアントワープを占拠、南部ネーデルランドを実質的に占領することとなった。 同年8月、ジュールダンの部隊からライン・モーゼル軍が新たに編成された。ライン・モーゼル軍はモロー将軍が指揮を執り、ラインラントに向けて進撃を開始した。 ジュールダンはさらにコーブルク将軍を追ってロエル川を渡り、ライン川左岸地区のプロイセン軍を掃討した。 同年11月からはルクセンブルク要塞の包囲に掛かり、翌年(1795年)の7月、ついに陥落させた。 1795年9月からジュールダンはプロイセン侵攻を企画した。彼はフランクフルトを目指して機動作戦を展開したが、12月21日にプファルツでピシュグリュ将軍がフランス軍を裏切った為、計画は頓挫した。
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