生い立ち〜クラブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 07:51 UTC 版)
「アシュリー・コール」の記事における「生い立ち〜クラブ」の解説
母は白人、父はバルバドスからの移民。歌手のマライア・キャリーと親戚関係にある。 地元アーセナルの下部組織に加入し、クリスタル・パレスにレンタル移籍した後、アーセナルに復帰。持ち前の突破力と的確なクロスでレギュラーを掴み、2001-02シーズンにはプレミアリーグとFAカップでそれぞれ優勝を収めた。その後、2003-04シーズンの無敗優勝にも貢献し「世界最高の左サイドバック」と言われるほど評価を高めていく。 2006年8月31日にはウィリアム・ギャラス+700万ユーロのトレードで同じロンドンのライバルであるチェルシーに移籍。この”禁断の移籍”に対してアーセナルファンは大きく反発し、「金目当てで移籍した」「キャッシュリー・コール(キャッシュは金の意味)」と非難されることになった。加入した序盤はあまり馴染めずにいたものの、徐々に順応していった。2008-09シーズンはウェイン・ブリッジが移籍した事もあり、代えの利かないサイドバック選手として活躍し、プレーヤーズ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 2009-10シーズンは中盤戦に負傷離脱もあったが終盤に復帰。チームメートのアネルカと共に異なる2つのチームでプレミアリーグとFAカップの二冠を経験した史上初の選手となり、またFAカップ史上最多である6度目の優勝を果たした(アーセナルで3度、チェルシーで3度)。ファン投票による2010年度のイングランド・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー 2010の最優秀選手に選出された。 2011-12シーズンにFAカップとUEFAチャンピオンズリーグの二冠を達成。 2013-14シーズンは恩師ジョゼ・モウリーニョが復帰するも、自身の負傷もありセサル・アスピリクエタにポジションを奪われた。シーズン終了後の2014年5月、自身のTwitterで退団を明言した。 2014年7月、ASローマに自由契約で加入決定。契約は2年間。ASローマの歴史上初のイングランド人選手となった。しかし、セリエAの環境になじめず、2015-16シーズン開幕前は、背番号3番を剥奪され、新加入のリュカ・ディニュにつけられるという屈辱を味わった。2016年1月に契約を解除し、正式に退団。 2016年1月に、イングランド代表のチームメイトのスティーブン・ジェラードの所属するロサンゼルス・ギャラクシーに加入決定。2018年1月にロサンゼルス・ギャラクシーとの契約を1年間延長した。 2019年1月21日、ダービー・カウンティFCとシーズン終了までの契約を結んだ。なおダービーの監督はチェルシーやイングランド代表でチームメイトであったフランク・ランパード。同年6月3日、ダービーは契約を更新しないことを発表し、退団。 2019年8月18日、プロ生活20年目を節目に現役引退を発表した。
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