禁断の移籍
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2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした。この「禁断の移籍」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展した。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした。 2000年10月に行われたレアルへの移籍後初のカンプ・ノウでのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれた。また、2002年11月の同スタジアムにおける試合では、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには子豚の頭まで投げ入れられた。また、EURO2004のギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面もあり、いまだに過去の確執が続いている。 この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年にはチャンピオンズリーグ決勝の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナとユヴェントスFC)の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、UEFAはバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった。 このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間は、最高に素晴らしい日々だった」と振り返っている。その一方で、「レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔は無い」、「バルセロナでは自分が悪役であっても構わない」とも語っている。
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禁断の移籍
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「デュルビ・デュ・ローヌ」の記事における「禁断の移籍」の解説
リヨンとサンテティエンヌの両クラブでプレーしたことがある選手は30人に満たず、両クラブ間を直接移籍した選手は13人のみである。直接移籍した初の選手は、1951年にサンテティエンヌからリヨンに移籍したAntoine Rodriguezである。Rodriguezはサンテティエンヌで9年間プレーしてから移籍したが、リヨンでのプレーは1シーズンに終わった。直接移籍した著名選手にはエメ・ジャケなどがいる。ジャケはサンテティエンヌで13シーズンプレーし、その後リヨンで3シーズンプレーした。現役引退後にジャケはリヨンの監督となり、1972-73シーズンのクープ・ドゥ・フランスで決勝に進出した。ベルナール・ラコンブはリヨンのクラブ最多得点者のひとりとなり、1978年にサンテティエンヌに移籍。しかし、サンテティエンヌサポーターからのブーイングの対象となり、わずか1シーズンでFCジロンダン・ボルドーに去った。 直接移籍したそのほかの選手には、François Lemasson、Alain Moizan、Andre Calligaris、Romarin Billong、Jean-Luc Sassus、Christopher Deguerville、グレゴリー・クーペ、Franck Priou、ラミネ・ディアッタ、バフェティンビ・ゴミスがいる。
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