生い立ち〜台湾へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:04 UTC 版)
1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった。1919年に浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立している。浜野像は戦時中の金属供出令で資材に流用されたが奇美実業創業者の許文龍により再制作、2005年に元の水源地に設置されている。 八田は28歳で、当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ高い評価を受けた。当時の台湾は、まさに上述のインフラストラクチャー建設のまっただ中で、水利技術者には大いに腕の振るい甲斐のある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
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