生い立ち〜立花家相続
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永禄10年(1567年)8月18日、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣の吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる(『立斎公御年譜』)。幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。永禄12年(1569年)、父の鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、主君大友義統より編諱を賜り元服し高橋統虎(むねとら)と名乗る。 天正9年(1581年)、7月27日(一説は11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地で、後述の戦闘と混同の可能性がある)、実父の高橋紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂の戦いとも)で初陣を飾り、敵将の堀江備前を討ち取って戦功を立てた。 同年8月、男児の無かった大友氏の重臣の戸次鑑連(立花道雪)が宗茂を養嗣子として迎えたいと希望してきた(道雪と紹運は共に大友氏の庶流にあたり、同僚であった)。紹運は宗茂の優秀な器量と、自身の長男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日、宗茂を道雪の養子として出している。このとき、宗茂は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘の誾千代と結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。 同年11月6日には養父の道雪・実父の紹運と共に嘉麻・穂波の地に出陣。立花・高橋の軍勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景(統景の大叔父)との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。両方の激戦は立花高橋300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。 天正10年(1582年)4月16日、秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いでは宗茂は500の伏兵を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将の笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させる功を挙げている。 11月、立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、名字を戸次から立花に改めた。12月22日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣した。 天正11年(1583年)3月17日の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って、4月23日宗像氏貞の居城許斐山(このみやま)城と杉連並の龍徳城を落城や降伏させた。 天正12年(1584年)8月、立花道雪・高橋紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、これを撃破し更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した。 立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。
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