生い立ち〜立花家相続とは? わかりやすく解説

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生い立ち〜立花家相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:21 UTC 版)

立花宗茂」の記事における「生い立ち〜立花家相続」の解説

永禄10年1567年8月18日豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏重臣吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる(『立斎公御年譜』)。幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改める。永禄12年1569年)、父の鎮理が前年高橋鑑種討伐されて絶えた高橋氏名跡継いだため、高橋氏跡取りとして育てられ主君大友義統より編諱を賜り元服し高橋統虎(むねとら)と名乗る天正9年1581年)、7月27日一説11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地で、後述戦闘混同可能性がある)、実父高橋紹運の手勢の一部率いて友軍立花道雪とともに出陣し秋月氏筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺戦い第二次太宰府石坂戦いとも)で初陣飾り敵将堀江備前討ち取って戦功立てた同年8月男児無かった大友氏重臣戸次鑑連立花道雪)が宗茂養嗣子として迎えたい希望してきた(道と紹運は共に大友氏庶流にあたり同僚であった)。紹運は宗茂優秀な器量と、自身長男であるという理由から最初拒絶しようとしたが、道何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日宗茂を道養子として出している。このとき、宗茂実質的に立花家家督継いでいた道の娘の誾千代結婚して婿養子となり、名も戸次統虎(べっき むねとら)と改め誾千代に代わって道から家督譲られた。 同年11月6日には養父の道実父の紹運と共に嘉麻穂波の地に出陣立花高橋軍勢朽網鑑康救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実問註所鑑景(統景の大叔父)との原戦いで戦闘した後に無事撤退との情報知り撤退したが、その最中秋月軍の追撃受けた両方激戦立花高橋300余、秋月760合わせて1,000超える死傷者をだし、当地には千人塚の名が残された。 天正10年1582年4月16日秋月氏原田氏宗像氏連合軍2,000との岩戸戦いで宗茂500伏兵率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将の笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させる功を挙げている。 11月立花山城で「御旗御名字」の祝い行い名字戸次から立花改めた12月22日宗像侵攻にも道に従って出陣した天正11年1583年3月17日吉原防戦にて吉原貞安を討ち取って4月23日宗像氏貞居城許斐山(このみやま)城と連並の龍徳城を落城降伏させた。 天正12年1584年8月立花道雪高橋紹運大友氏筑後奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城留守を預かる事となった。この時、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、これを撃破し更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏城砦襲撃した立花高橋軍は龍造寺島津勢を破って筑後国大半奪回したが、天正13年1585年)に道病死する事態急変し筑後における大友軍の将兵一気厭戦気分高まってしまう。

※この「生い立ち〜立花家相続」の解説は、「立花宗茂」の解説の一部です。
「生い立ち〜立花家相続」を含む「立花宗茂」の記事については、「立花宗茂」の概要を参照ください。

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