生い立ち〜青年期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:59 UTC 版)
1882年(明治15年)、東京府東京市浅草区橋場町(現在の東京都台東区橋場)にて誕生。日新尋常小学校を経て、浅草尋常高等小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する。画家を志し、1897年(明治30年)9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)予備ノ課程に入学するも、眼の病に侵されて中退。 青年期には商売で成功する。だが、過労をきっかけとして多数の病気にかかり3回入院、不治の宣告を2回受ける。そのような体験の中で薬物の持つ副作用に気付き、医薬品や医者に頼らない、自然治癒力を重視した生活様式を築き上げていった。 小間物屋「光琳堂」、装飾品卸商「岡田商店」、映画館経営などの事業を行い順調に収益を上げたが、取引先銀行の破産で事業が頓挫。さらに妻が流産や死産を繰り返し、やっと妊娠した子も5か月で死亡、先妻も死去するなど不幸が重なる。慈善は好きだが宗教は根っから嫌う無神論者であったが、不幸が続くことで人間の力の儚さから救いを求め、様々な宗教の講話を聴く。ただし、信仰を勧められるも心は向かなかった。
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