生い立ち〜舞台女優へ
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埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる。父・潔は浦和警察署の署長をつとめた。埼玉県立浦和高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇を志し、1915年9月に武田正憲と川村花菱が東京・神田の東京座で旗揚げした「新日本劇」に入る。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎・藤村秀夫・岩田祐吉・正邦宏・永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子・村田栄子などがいた。 同年の第一回公演『枝川の流れ』で、本名の前川しのぶで初舞台。翌1916年3月の本郷座での第三回公演『虎公』(佐藤紅緑原作)で、初めて「五月信子」の芸名を名乗り、秋園久満子役を演じた。芸名は、結婚した友人の旧姓と、本名「しのぶ」の一部から採ったという。この間、芸術座附属演劇研究所で学び、1916年4月からは、「新日本劇」の地方巡業にも参加するが、劇団は同年9月に解散となる。解散後間もなく、同劇団の顧問であった佐藤紅緑が残党を集めて新たに「日本座」を結成すると信子も参加し、12月の旗揚げ公演『裾野』で主演の仮名子を演じて認められる。 「日本座」のメンバーとして地方巡業に参加した後、1917年6月に劇団を離れ、武田正憲・諸口十九・高橋義信らが結成した「新演劇協会」に参加。『茶を作る家』、『椿姫』などを出し物に、各地を巡演する。翌1918年3月東京に戻り、井上正夫主宰の「女優劇」の一員として、浅草・吾妻座の舞台に立つ。同年11月、井上と関係があった松竹合名社に招かれて大阪に移り、大阪松竹所属の「新劇団現代劇」(関西新派)の女優となる。1919年2月の京都・明治座『路二つ』で諸口十九と共演した他、同年5月の神戸・中央劇場『太陽』でも諸口や勝見庸太郎を相手役に主演し、関西新派の幹部女優として活躍する。同年10月に辻野良一・三好栄子らとともに「新声劇」を結成し、『ある伝説の家』を出し物に大阪・道頓堀の弁天座で旗揚げ公演を行う。以後も関西各地を巡演し、大衆的人気を得る。翌1920年6月には山田九州男(山田五十鈴の父)・明石潮・岡本五郎・衣笠みどりらと「国華劇」を結成、弁天座で旗揚げ公演を行った。同じ頃、「新演劇協会」時代の仲間で、当時松竹所属の「成美団」の看板俳優であった高橋義信と結婚。同年11月、国際活映系列の「国際新劇団」に入る。
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