生い立ち〜舞台女優へとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 生い立ち〜舞台女優への意味・解説 

生い立ち〜舞台女優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 10:10 UTC 版)

五月信子」の記事における「生い立ち〜舞台女優へ」の解説

埼玉県北足立郡浦和町(のち浦和市、現・さいたま市)に生まれる。父・潔は浦和警察署署長つとめた埼玉県立浦高等女学校(現・埼玉県立浦和第一女子高等学校)を卒業後、新劇志し1915年9月武田正憲川村花菱東京神田東京座旗揚げした「新日本劇」に入る。座員には、武田正憲を頭に、花柳章太郎藤村秀夫・岩田祐吉正邦宏永井赤鳥(後の柳永二郎)・渡瀬淳子村田栄子などがいた。 同年第一回公演枝川流れ』で、本名前川しのぶで初舞台。翌1916年3月本郷座での第三回公演虎公』(佐藤紅緑原作)で、初めて「五月信子」の芸名名乗り秋園久満子役演じた芸名は、結婚した友人旧姓と、本名「しのぶ」の一部から採ったという。この間芸術座附属演劇研究所学び1916年4月からは、「新日本劇」の地方巡業にも参加するが、劇団同年9月解散となる。解散後間もなく、同劇団顧問であった佐藤紅緑残党集めて新たに日本座」を結成する信子参加し12月旗揚げ公演裾野』で主演仮名子を演じて認められる。 「日本座」のメンバーとして地方巡業参加した後、1917年6月劇団離れ武田正憲諸口十九高橋義信らが結成した「新演劇協会」に参加。『作る家』、『椿姫』などを出し物に、各地巡演する。翌1918年3月東京戻り井上正夫主宰の「女優劇」の一員として、浅草吾妻座の舞台に立つ。同年11月井上と関係があった松竹合名社に招かれ大阪移り大阪松竹所属の「新劇現代劇」(関西新派)の女優となる。1919年2月京都明治座『路二つ』で諸口十九共演した他、同年5月神戸中央劇場太陽』でも諸口勝見庸太郎相手役主演し関西新派幹部女優として活躍する同年10月に辻野良一・三栄子とともに新声劇」を結成し、『ある伝説の家』を出し物大阪道頓堀弁天座で旗揚げ公演を行う。以後関西各地巡演し、大衆的人気を得る。翌1920年6月には山田九州男山田五十鈴の父)・明石潮岡本五郎衣笠みどりらと「国華劇」を結成弁天座で旗揚げ公演行った。同じ頃、「新演劇協会時代仲間で、当時松竹所属の「成美団」の看板俳優であった高橋義信結婚同年11月国際活映系列の「国際新劇団」に入る。

※この「生い立ち〜舞台女優へ」の解説は、「五月信子」の解説の一部です。
「生い立ち〜舞台女優へ」を含む「五月信子」の記事については、「五月信子」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「生い立ち〜舞台女優へ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「生い立ち〜舞台女優へ」の関連用語

生い立ち〜舞台女優へのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



生い立ち〜舞台女優へのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの五月信子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS