父との確執
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永正12年(1515年)、元服し、家の慣例により、第10代将軍・足利義稙より偏諱を賜い、稙長と名乗る。 永正14年(1517年)、父の隠居により家督を継承するが、既に永正8年(1511年)に河内高屋城を父より譲られるなど、その活動は河内や京都において数年前から確認でき、同時期に父の活動は越中や紀伊方面に注がれていた形跡があり、家督継承の前から二元的な統治形態を取っていたと考えられている。また、父は室町幕府管領の細川高国政権の下で守護職を回復し、明応の政変以前の地位を幕府においてある程度取り戻すことに成功していた。 永正14年(1517年)、尚順は紀伊に下向。これは管領は高国が任命され、山城守護職も大内義興に握られることに不満があったためとされることもあるが。澄元派の反撃に備えて領国を固める積極的意志と評価する説もある。これに伴い、稙長は幕府と関係する畿内での活動を継承している。京都における幼少期の稙長は、義稙を支える在京守護の義興・高国や能登畠山家の畠山義元・義総父子との交流が見え、彼らとは良好な関係を保っていたと思われる。 永正15年(1518年)、義興が周防に帰国し、高国と将軍・足利義稙が対立すると、明応の政変以来の義稙の支持者であった尚順は義稙に味方したが、永正17年(1520年)に強硬な統治方法に反発する国衆からに紀伊を追放され、堺に逃れることになる。これにより、稙長は正式に畠山氏の当主として活動するようになる。 同年2月、父の宿敵である畠山義英に高屋城を包囲され、3月に城を落とされて逃亡したが、5月に高屋城を奪い返し、義英を大和へ追放した。 同年6月から10月にかけて、高国と協議の上で大和に介入し、尚順派と義英派に分かれて争っていた筒井順興と越智家栄を始めとする大和国人衆を和睦させ、大和への影響を保った。 大永元年(1521年)、尚順と結んだ義英が翌に高屋城を攻撃するも、稙長がこれを撃退。尚順は義稙を奉じ淡路において再起を図るも果たせないまま翌大永2年(1522年)に病没する。 大永3年(1523年)、義稙も死去し、ほぼ同じ時期に総州家においても義英に代わり畠山義堯が当主となり、敵がいなくなった高国政権は安泰となったが、尚順と義英の和睦で総州家の勢力と尾州家の尚順派の勢力が結びつくことにより、河内畠山氏の内訌が再発する。このため越中においては河内畠山氏の影響力が低下し、分家である能登畠山氏に統治を委ねざるを得ない状況になってしまった。 一方で細川高国とは友好関係を保っており、大永4年(1524年)の足利義晴の新邸造営の際は畠山義総共々高国に上洛を依頼されており、最終的に稙長が総奉行に任命されている。以降もしばしば、稙長が高国のために上洛している形跡がある(なお、尚順の妻は細川高国の姉であり、嫡男の稙長は高国の甥である可能性がある)。
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父との確執
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「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「父との確執」の解説
フリードリヒ2世は1712年1月24日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの子として生まれた。父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は兵隊王とあだ名される無骨者で芸術を解さなかったが、母ゾフィー・ドロテアは後のイギリス国王兼ハノーファー選帝侯ジョージ1世の娘で洗練された宮廷人だった。そのため教育方針も正反対の2人は対立し、それは王子フリードリヒにも大きな影響を与えた。父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。 その軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリードリヒの騒がしさに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。 しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していった。
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父との確執
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弟のザックはバイパー搭乗時の事故で死亡した。当時ザックは教官であったカーラ・スレイスの婚約者であり、カーラがその恋愛感情からパイロットとして未熟な彼を試験にパスさせ、卒業させたことが事故の大きな原因の一つであった。しかしこの経緯をリーは知らなかったため、父親であるウィリアム・アダマが自らの軍人としての誇りやプライドをザックに押しつけたためにザックが死んだと考え強い反発を抱くようになる。第二次サイロン戦争後、カーラ・スレイスがこのことを打ち明けたためこの件に関しては和解した。しかし、ローラ・ロズリン大統領と父が対立した際、ガイアス・バルター裁判時等、この後も父子はしばしば対立することとなる。
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