父とのいさかい
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:25 UTC 版)
「アドルフ・ヒトラー」の記事における「父とのいさかい」の解説
母クララとの関係は良好だったが、家父長主義的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした。アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた[要文献特定詳細情報]。これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている[要文献特定詳細情報]。1900年、中等教育(中学校・高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。 恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(ドイツ語版)や大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている[要文献特定詳細情報]。なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した。周囲の人間もほとんどが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した[要文献特定詳細情報][要文献特定詳細情報]。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。 ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいとする見解もある。税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があり、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている。もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろギムナジウム入学を強制したはずである。よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い、というものである。 1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、留年となった。1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した。1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳(数え年)で病没する。地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。同年には外国語(フランス語)の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった。 退学後、リンツ近郊にあったシュタイアー市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験で国語と数学、後期試験では幾何学で不合格となった。私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている。結局、1905年には試験や授業を受けなくなり[要文献特定詳細情報]、病気療養を理由に2度目の学校も退校している。 ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述の小学校のみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。
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