父との「和解」
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転居を繰り返していた直哉であったが、1915年(大正4年)9月、柳宗悦の勧めで千葉県我孫子の手賀沼の畔に移り住むと、この後1923年(大正12年)まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤やバーナード・リーチと親交を結んだ。我孫子に転居した翌1916年(大正5年)、康子との間に長女・慧子が誕生するが夭折。この実子夭折の経験は「和解」や「暗夜行路」といった作品に描かれている。 1916年12月、夏目漱石が死去。漱石を慕ってきた直哉にとって漱石の死は悲しいものだった。しかし「漱石への不義理を償うため、良い作品を書いて『朝日新聞』に掲載するまでは他の媒体への掲載は遠慮する」という心理的束縛からは開放された。武者小路実篤の後押しもあり、1917年(大正6年)、直哉は執筆を再開する。5月、『白樺』誌上に「城の崎にて」を発表。この作品は城崎での養生中の体験を基にし、小動物の死を通して自らの生と死を考察したものである。また、直哉の代表作となると同時に、いわゆる「心境小説」の代表作となる。続く6月、武者小路の勧めで「佐々木の場合」を雑誌『黒潮』に発表。この作品は漱石に捧げられたが、それは3年前の新聞小説連載辞退を漱石に詫びる気持ちからであった。8月には「好人物の夫婦」、9月には「赤西蠣太」を発表する。そして直哉はこの年、父との和解を実現する。その喜びも覚めやらぬ中、この経験を描いた「和解」を一気に書き上げ、同年10月、雑誌『黒潮』に発表した。直哉本人の述懐によると、直哉はこの作品を原稿用紙1日平均10枚15日間で書き上げたが、この執筆のペースは「後にも前にもないレコード」だったという。 この1917年(大正6年)から我孫子を離れる1923年(大正12年)までは、作家・志賀直哉にとって「充実期」といえる期間であった。生涯寡作であったにもかかわらず、直哉はこの期間に「小僧の神様」や「焚火」、「真鶴」といった代表作を次々と発表している。雑誌『改造』における長編「暗夜行路」(「時任謙作」から題名を変更)の連載開始もこの頃である。また、『留女』以外になかった直哉の作品集がこの期間に9冊出版された。「大津順吉」や「清兵衛と瓢箪」を収めた『大津順吉』、「和解」や「城の崎にて」を収めた『夜の光』、「焚火」や「小僧の神様」を収めた『荒絹』、『暗夜行路・前篇』はその一部である。なお『夜の光』の装幀はバーナード・リーチが担当している。
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