父との軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
カフカは自分と性質の違う父親ヘルマンと、しばしば衝突を繰り返しており、この事がカフカの人生と文学とに深い影響を与えている。ヘルマンは商才に長けた実利的な人物であり、カフカの繊細な感性や、その文学活動に理解を示そうとする事はなかった。1912年には長女エリの婿と共に、カフカをアスベスト工場の責任者の任に就かせ、執筆の時間を欲しがっていたカフカを苦しめている。家庭では高圧的に振る舞い、貧しい環境で育った自分に対し、息子であるカフカがいかに恵まれているかを言い立てて、げんなりさせた。また、大柄で頑健な体格は、背が高く痩せ型だったカフカに劣等感を抱かせていた。 貧しい生い立ちから成功して富裕になったヘルマンは、「都市ユダヤ人」としてのプライドから「民衆ユダヤ人」に対して差別意識を持っており、その為カフカとイディッシュ語劇団との付き合いに不快感を示し、カフカとユーリエ・ヴォリツェックやドーラ・ディアマントとの付き合いには強固に反対した。ユーリエ・ヴォリツェックとの婚約によって、父との仲が険悪になっていた1919年に、カフカは便箋で100枚にも及ぶ長文の「父への手紙」を書いた。この手紙は、なぜ私を恐れるのかという父の問いかけに答える事から始まり、幼い頃から父の振る舞いで、どの様に傷つけられたか、その事で自分の世界が、どの様に変容していったかを、予想される父からの反論に対する答えを交えながら綴っている。そして父との関係が、これまでの自分の結婚の失敗にも悪影響を及ぼしている事に対し、父に理解を求めている。 「父への手紙」は実際にヘルマンに渡される筈であったが、手渡された母と、それを読んだ妹オットラに止められて父には渡らなかった。
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