父との不和
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1907年(明治40年)、東京帝大に在学していた直哉は志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。1912年(大正元年)9月、直哉は「大津順吉」を『中央公論』に発表する。この「大津順吉」は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で直哉は初めて原稿料100円を得る。その頃、『白樺』の版元である洛陽堂から直哉初の短編集を出版する話が進み、その出版費用を父が負担することが約束された。そこで直哉がその費用を父に求めにいったところ、父は「小説なぞ書いてゐて将来どうするつもりだ」「小説家なんて、どんな者になるんだ」と、直哉の小説家としての将来を否定するような発言をした。言い争いになった結果、直哉は10月25日に家出して東京の銀座木挽町の旅館に2週間ほど滞在した後に広島県尾道へ転居する。 尾道転居後の1913年(大正2年)1月、初の短編集となる『留女』を刊行。題名は祖母の名にちなむ。後にこの短編集は夏目漱石によって賞賛された。『留女』刊行の同月、読売新聞紙上に「清兵衛と瓢箪」を発表する。これは瓢箪を愛する少年と、その価値観を理解しようとしない大人たちの話であるが、後年、直哉は「自分が小説を書く事に甚だ不満であった父への私の不服」がこの作品を書く動機であったと語っている。そして尾道において直哉は、自身初となる長編「時任謙作」の執筆に着手する。直哉自身がモデルである時任謙作を主人公とし、父との不和を題材とした作品だった。しかし思うように筆が進まず執筆を中断する。長編執筆が進まなかったことも相まって直哉は1913年(大正2年)4月、尾道滞在を半年程度で切り上げ帰京する。 1913年(大正2年)8月15日、東京に滞在していた直哉は「出来事」という小説を書き上げた晩に、里見弴と一緒に素人相撲を見に行くが、その帰り道に山手線の電車にはねられ重傷を負い、東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に入院する。同年10月、その養生のために兵庫県の城崎温泉に滞在。城崎滞在中、直哉は蜂・鼠・いもりという3つの小動物の死を目撃する。この体験が後の短編「城の崎にて」の形で結実することとなる。 城崎での養生後、11月8日、直哉は一度は尾道に戻ったものの中耳炎を患い、その治療のため11月17日に帰京する。その後、東京の下大井町(大森駅の近く)に家を借りて一旦はそこに居住する。しかしその頃、武者小路実篤を介して夏目漱石から東京朝日新聞に小説を連載するよう依頼される。直哉は同紙に「時任謙作」を連載する心積もりで、腰を据えてその執筆に取り組むために1914年(大正3年)5月、東京を離れて里見弴とともに島根県松江市へ転居する。1925年(大正14年)に発表された「濠端の住まひ」は松江での生活を描いたものである。そして松江居住時、大山に赴いた直哉はその眺望に感銘を受ける。この大山からの眺望は「暗夜行路」の結末の場面に採用されている。松江において後の創作につながるこうした体験をしていた直哉であったが、肝心の小説の執筆は進まなかったため、上京して漱石宅を訪れ、その場で漱石に新聞小説連載辞退を申し出た。漱石に不義理を働いたとの自責の念に悩んだ直哉は、結果的にこの年から3年間休筆をする。 1914年(大正3年)9月に直哉は京都へ転居する。同年12月、武者小路実篤の従妹である勘解由小路康子と結婚。康子は華族女学校中退である上に再婚だったことなどから、この結婚は父の望むものではなく、結果として直哉と父との対立は深まった。結婚の翌年、直哉は父の家から自ら離籍している。結婚式は東京麹町元園町の武者小路宅で行われたが、列席者は武者小路・勘解由小路の両夫妻のみで、京都の料亭「左阿彌」で行われた結婚披露宴は友人数人のみの出席にとどまった。結婚後、神経衰弱になった康子のために翌1915年(大正4年)5月に鎌倉雪ノ下へ転居する。しかしこの転居は康子の神経衰弱に良い影響を与えず、1週間程度で群馬県の赤城山に転居。猪谷六合雄の建築した山小屋に住む。この家に住んでから康子は神経衰弱から回復。直哉もこの家を気に入る。赤城山での生活は1920年(大正9年)に発表された「焚火」に描き出されている。
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