熊本電気の傘下となる
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1927年9月、熊本電気では社長に元内務官僚の上田万平が就任。上田の就任以降、熊本電気は積極経営を推進して周辺事業者の統合を進め始める。一方、球磨川電気では1928年(昭和3年)5月に坂内虎次が社長から退任し、副社長から昇格した黒岩常平(元都城電気社長、宮崎県多額納税者)に代わった。翌1929年(昭和4年)、熊本電気と球磨川電気の間で業務提携が成立し、2月に熊本電気が球磨川電気株式の4割余りを274万5千円で買収して傘下に収めた。これに伴い同年4月に経営陣が後退し、上田が社長に就任した。なお上田死去後の1935年(昭和10年)11月からは熊本電気専務の中島為喜(細川家家扶)が社長となっている。 1930年(昭和5年)4月、球磨川電気は長崎県の対馬電灯株式会社(資本金2万円)から事業を譲り受けた。同社は対馬の下県郡鶏知村の事業者で、同村を供給区域として1922年(大正11年)に開業していた。 発電所建設については、熊本電気の傘下となって以降、1935年(昭和10年)に球磨川水系にて田迎発電所(出力2,240キロワット)が完成したのみで、他には行われていない。供給成績は1938年(昭和13年)10月末時点で電灯数16万9,976灯、販売電力1万376キロワット(小口2,935キロワット・大口7,120キロワット・電熱321キロワット)であった。
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熊本電気の傘下となる
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1926年ごろから鹿児島電気は経営が一時悪化し、1927年(昭和2年)には配当率が年率6パーセントまで低下した。加えて同年1月には創業者の祁答院重義が病気を理由に社長から退き、副社長の永井作次と交代した(永井は1929年4月社長辞任)。こうした中、鹿児島電気は業務提携の相手を探し、熊本の電力会社熊本電気の傘下に入ることとなった。熊本電気は鹿児島電気の全株式20万株のうち3割にあたる6万株余りを1927年6月末までに買収(1928年3月末には4割以上となる)し、さらに役員を派遣して経営を掌握した。 熊本電気の株式買収と同時期、日本水電も鹿児島電気株式の買収を進め、1927年6月末時点で1万5千株を取得していた。同社は1918年設立と後発の電力会社ではあるが、日本窒素肥料(後のチッソ)の傘下に入って規模を拡大し、1924年(大正13年)以来鹿児島県内の電気事業者を相次いで合併。その供給区域は鹿児島市とその周辺を除く、鹿児島県本土の大部分となっていた。前述の通り、鹿児島電気は鹿児島市内のガス事業を日本水電に売却したが、同社とはこれ以外に特段の関係はなく、ガス事業の売却に前後して日本水電は持ち株全部を売却したため同社との資本関係はなくなった。 鹿児島県本土の電気事業者は多くが日本水電に合併されたが、加治木電気だけは鹿児島電気の傘下に入った。加治木電気は鹿児島市の東、姶良郡加治木町(現・姶良市)の会社で、1911年(明治44年)2月に設立。姶良郡のうち加治木町ほか4村を供給区域としていた。鹿児島電気では同社の株式を買収し、1929年(昭和4年)1月には役員を派遣した。さらに1930年(昭和5年)4月、加治木電気から事業を買収する契約を結ぶが、この契約は実行されず、加治木電気はそのまま事業を継続している。 1933年(昭和8年)9月、電源の増強を再開し、6番目の水力発電所として天降川にて塩浸発電所(出力1,840キロワット)を着工、1934年(昭和9年)12月に完成させた。供給成績は1938年(昭和13年)9月末時点で電灯数16万2,975灯、小口電力5,759馬力、大口電力2,733キロワットで、大口の電力供給先は前年時点で鹿児島市交通課(450キロワット)、大日本紡績鹿児島工場(1,000キロワット)、鹿児島地方専売局(280キット)、加治木電気(200キロワット)などが存在した。
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