熊本鎮台分営所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:36 UTC 版)
「与儀タンクファーム」の記事における「熊本鎮台分営所」の解説
与儀タンクファームは琉球を併合した明治政府が熊本鎮台 (基地) を築いた場所でもあった。そのため与儀の「タンク跡」はかつては「兵隊屋(ヒータイヤー)」とも呼ばれていた。 1875年 (明治8) 5月、明治政府は「藩内保護」の名目で熊本鎮台の沖縄への設置を決定し、1876年7月に熊本鎮台沖縄分遣隊を派遣した。真和志間切古波蔵村周辺の6ヘクタール余りの地所を駐屯地として兵舎や練兵場を建設した。 1879年 (明治12年) 3月25日、「琉球処分」にともない、処分官松田道之と分遣隊400名あまりが那覇港に到着し、一連の沖縄県設置、首里城明け渡し等を断行。翌年の1880年からは、陸軍は首里城を駐屯地とし、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。1890年2月には安里村(現大道・松川)に練兵場と射的場を建設。 1896年 (明治29年) 7月、分遣隊派遣終了後、古波蔵駐屯跡地は農事試験場用地として使用された。 1918年 (昭和3年)、再び 1.3ha が陸軍の基地となり、在郷軍人の演習等に使用された。
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