漁法改良史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 10:03 UTC 版)
かつて北海道の日本海沿岸では、春になればニシンが産卵のために大群となって押し寄せてきた。メスが卵を産み、オスが一斉に放精するため、沿岸から数キロの海面は白く染まるほどだったという。 この豊かな水産資源を求め、蝦夷地でも日本海沿岸は早くから和人が進出した。記録の上では、文安4年(1447年)に陸奥国の馬之助なる者が松前郡白符村(現在の松前町白符)で行った漁を、和人によるニシン漁の嚆矢とするが、建保4年(1216年)開基と伝えられる江差町姥神大神宮の創建伝承にもあるとおり、古くから和人が来道してニシン漁に従事していたことは疑いない。しかしその当時のニシン漁は、凪の時分を見計らって沖に漕ぎ出し、シナノキの皮から取った繊維で編んだタモ網で掬いとるようなごく簡素なものだった。 時代が下って延宝元年(1673年)には、越後国の者が麻で編んだ刺し網を松前藩内に持ち込んでの商売を始め、宝永年間(1710年)には大型の網の使用も広まり始めた。和人そのものの活動範囲も広がり、寛政年間(1790年ごろ)には北海道北端の宗谷や樺太南部にまで和人の魚場が開かれた。天明3年(1783年)に江差を訪れた紀行家・平秩東作が著した旅行記『東遊記』によれば、江差の町は諸国からの出稼ぎ漁師やニシン製品の売買で喧騒を極め、一般の出稼ぎ者でも数ヶ月の働きで12、13貫、目端の利く者は30、40両を稼ぎ上げていたという。 18世紀以降は内地においてミカンや藍、ワタなど商品作物の栽培が広まり、肥料としての効果が高い金肥が求められていた。干鰯の値段が高騰するとともに、ニシンから魚油を搾り出した際に残る搾りかす「鰊粕」が肥料として注目されることになる。鰊粕の需要増大を受けてニシン漁も改良が加えられ、安永年間(1775年)ごろには国後島や厚岸、さらに網走などオホーツク海沿岸で地曳網を使用した大規模な漁が始まり、文政元年(1818年)ころから日本海沿岸の小樽や余市付近で笊網が導入される。刺し網による漁では1漁期に30石程度だった漁獲高は、笊網の使用で180石に跳ね上がる。しかし、笊網は操業時に騒音を発する欠点があったため、文化年間(1810年)から弘化年間(1845年ごろ)にかけて行平網が使用されるようになる。 行平網は騒音を発する欠点もなく、性能に優れていたため幕末まで全道的に広まり、さらに明治中期に角網が導入された。角網はもともと鮭の漁に使用する網だが、入り口が狭く、1度内部に進入した魚を逃しにくい利点がある。そのため瞬く間に普及し、明治32年(1899年)には全道の建網利権数約6千統のうち、4千統以上が角網で占められていた。 一方、大網を用いて大量に捕獲したニシンを、陸上に運搬する方法にも工夫が加えられた。まず嘉永4年(1851年)、積丹半島美国(びくに)で使用されはじめたのが袋網である。これは長さ8間、口の周囲5間で40石のニシンを入れることができ、獲物を一時的に海中に沈めて保存し、折を見て陸まで運ぶ際に用いられた。 しかし海中に沈めたままにされた袋網は、海流で流され海底で摩れて破れる恐れがある。そこで安政3年(1857年)、古平郡群来村の秋元金四郎が浮きを兼ねた丸太の枠に網を吊り下げた「枠網」を開発し、翌年には同村の白岩八左衛門が、網袋を船に直接吊り下げ、船付き場まで漕いで運ぶ方法を考案した。こうして、ニシンが250-300石 (200t) が入る枠網を取り付けた運搬用の船「枠舟」が開発された。行平網や角網に追い込んだニシンをそのまま海上で枠網に落とし込み、これを幾度も繰り返して枠網を魚で満たす。枠網を吊り下げた枠舟が波静かな場所まで移動したところで、ニシン運搬専用の船「汲み船」が次々と漕ぎ寄せては網内部のニシンを汲み出し、船着場まで運んで陸揚げする。 漁具や漁法の改良が繰り重ねられた結果、明治・大正期には一箇所の漁場における数ヶ月の操業で400石から3000石 (700t-2250t) の漁獲を誇るようになった。
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