淫乱の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 12:49 UTC 版)
「アダルトビデオの歴史」の記事における「淫乱の時代」の解説
1985年4月、『ドキュメント ザ・オナニー』を輩し、ソフトポルノ路線を展開していた日本ビデオ映像が9億円の負債を抱えて倒産する。これは撮影所方式世代の時代の終焉を告げる象徴的な事件であったと同時に、アダルトビデオ業界変革の前哨でもあった。ビデオレンタル店の増加や新風俗営業法の施行に伴い、それまで、裏ビデオをメインに独自の通信販売で商品を流通させていたメーカーが相次いでビデ倫に加盟し、市場の拡大とアダルトビデオ業界の体質の変化が加速した。特にSMメーカーの御三家と言われたアートビデオ、シネマジック、スタジオ418の加盟は大きな衝撃を与えた。 豊田薫はこの時代を象徴する作品を数多く手掛けた監督で、ビデ倫の規制基準と度々衝突した。特に1985年7月の『マクロ・ボディ 奥まで覗いて』の下着越しのフェラチオ、『ザ・KAGEKI2 黒くぬれ!』や『侵犯! 恥骨の森』などの膣内のクローズアップ映像に見られるハードな描写は同業他社の内容面の補強と見直しを余儀なくさせた。 一方、村西とおるもこのころにデビューしており、池田理代子や横須賀昌美を起用したソフトポルノを制作していたが、営業的な成功は見られず、本番ビデオ路線へと傾斜していき、1985年、『恥辱の女 立川ひとみ』を発売した。『ビデオ・ザ・ワールド』(86年3月号)で実施された「1985年度アダルトビデオリアルベストテン」において同作は1位に選出され、村西はその名声を確固たるものとした。村西は月産約6本という異常な乱作形式を採っており、そうした中で営業的な成功を収めるのは、決まって粗製乱造された本番ポルノであった。やがて、自身も作品内に男優として出演するようになり、1986年10月、伝説となったアダルトビデオ、黒木香の「SMっぽいの好き」が登場することとなる。 黒木の登場は再び「本番」という行為に対しての強力なまでの影響力を認識させると共に、ルックスで劣る女優たちにとっても過激な性感表現を駆使することで高い出演料を手にすることが出来る機会があることを確信させた。黒木に続けとばかりに過剰な痴態表現を見せることを売り物にする「淫乱女優」が次々と登場し、咲田葵、沖田ゆかり、亜里沙、朝吹麻耶、豊丸、沙也加、有希蘭といった女優たちが成功を手中に収めた。大根などの異物挿入やペニスの2本同時挿入など、多数の過激な性戯に挑戦してきた豊丸は後のインタビューで「黒木のAVを見て、こうしたことに挑戦したいと思っていた」と、その影響を語っている。また、90年代に入って前戯技術研究の進化と共にGスポット刺激による普遍的反応として確立された潮吹きは、沖田ゆかりが『いんらんパフォーマンス 色即是空』で見せることによっては一世を風靡し、本番をしない美少女系女優にも伝播し、現代においては女性のオーガズムを映像表現する代表的手法として多くのアダルトビデオに取り入れられている。この時代、美少女路線のソフトポルノと、淫乱路線のハードコアの二種類の路線を機軸として日本のポルノ認知は社会的な拡大を見せた。村西とおるや黒木香が頻繁にテレビのゲストとして登場するなどメディアの力も獲得して芸能界への侵食を開始した。 一方で、レンタルビデオショップの店舗数は臨界点に達し、激しい価格競争が行われるようになった。1985年に1200円だったレンタル料金はみるみる下落し、100円レンタルを標榜する店舗まで出現した。大型チェーン店の競合店舗駆逐策に対し、個人経営のビデオレンタルショップは独自性を見出すために、「無審査ビデオ」「インディーズ・ビデオ」などと銘打ったビデ倫の審査を受けていないビデオを店頭に並べるようになった。1987年に主流となった「シースルービデオ」と呼ばれるモザイクの薄い、性器の透過性の高い商品が需要を伸ばした。こうした商品は摘発の危険性を避けるためにメーカー所在地をパッケージに記していないことがほとんどで、警察はビデオレンタル店をわいせつ物の頒布で度々摘発した。 警察とアダルトビデオ業界の対立は年々激しくなり、警察側はモデル供給源の遮断が急務と捉え、1988年1月、トゥリード、富士総合企画など大手モデルプロダクション4社を摘発した。しかしこの摘発根拠は「労働者派遣法」及び「職業安定法」で、警察がモデルプロダクションを「管理売春」で立件できない実情を明らかにさせてしまう結果となり、業界内には安堵感が広がった。 1989年3月、女子高生コンクリート詰め殺人事件という凄惨な事件が発生し、同5月、アイビックにより同事件が作品化されたという報道が週刊誌でなされ、世論に大きな衝撃を与えた。これに対してビデ倫は6月5日、「記憶に生々しい社会的事件を題材として取り上げないように」との通達を出したと同時に、「セーラー服」や「少女」など、未成年を示唆する言葉やタイトルの使用禁止を規定した。さらに同年7月21日、15歳の少女であった伊藤友美が24本ものアダルトビデオに出演していたとして所属事務所マウントプロモーション社長、メーカー4社の社長、監督が逮捕された。続く8月10日、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で宮崎勤が逮捕され、大量のアダルトビデオを所持していたとされる報道がなされたため、アダルトビデオに対する本格的な抑圧が開始されるかに思われた。しかし、行政の政策は宮崎が実際に大量に所持していたホラービデオとロリコンビデオの対策や未成年が自由に購入できる状況にあった自動ポルノ販売機の規制に終始し、アダルトビデオ業界そのものが規制対象となることはほとんどなかった。 1989年4月に発売された女性週刊誌『an・an』において、「セックスで、きれいになる」とコピーが打たれたセックス特集が組まれ、女性の性に対する意識変化が試みられるようになると、アダルトビデオ業界にも林由美香、樹まり子といった自主的に「本番出演」を選択する女優が次々と登場し始めた。また、早見瞳の『今度は本番! 早見瞳』のような一旦引退したソフトポルノ女優の本番路線への転向とカムバックがブームとなり、人気を博した。
※この「淫乱の時代」の解説は、「アダルトビデオの歴史」の解説の一部です。
「淫乱の時代」を含む「アダルトビデオの歴史」の記事については、「アダルトビデオの歴史」の概要を参照ください。
- 淫乱の時代のページへのリンク