淤宇宿禰との管掌争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/09 15:28 UTC 版)
「額田大中彦皇子」の記事における「淤宇宿禰との管掌争議」の解説
『日本書紀』巻第十一によれば、応神天皇なきあと菟道稚郎子と大鷦鷯尊(おおさざき の みこと、のちの仁徳天皇)が互いに皇位を譲り合っている頃、 是に額田大中彦皇子、将(まさ)に倭の(やまと)の屯田(みた)及び屯倉(みやけ)を掌(つかさど)らむとして、其の屯田司(みたのつかさ)出雲臣(いづものおみ)が祖(おや)、淤宇宿禰(おうのすくね)に謂(かた)りて曰はく、「是の屯田は、本より山守の地なり。是(ここ)を以て、今(いま)吾(われ)、将に治(つく)らむとす。爾(なむぢ)は掌(つかさど)るべからず」といふ。(このとき、額田大中彦皇子が、倭の屯田と屯倉を支配しようとして、屯田司の出雲臣の祖先祖、淤宇宿禰に語って、「この屯田はもとから山守りの司る地である。だからいま自分が治めるから、お前にその用はない」といわれた)訳:宇治谷孟 淤宇宿禰は太子(ひつぎのみこ=菟道稚郎子)にこのことを訴えたが、 「汝(なむぢ)、便(すなは)ち大鷦鷯尊(おほさざき の みこと)に啓(まう)せ」 とおっしゃられ、淤宇宿禰は大鷦鷯尊にこのことを訴えた。大鷦鷯尊は倭直の祖先である麻呂に尋ねたところ、麻呂の弟の吾子籠(あごこ)が知っていると解答を保留した。この時、吾子籠は韓国(からくに、朝鮮半島)へ派遣されていて、留守だった。そこで淤宇宿禰に韓国まで行って急いで吾子籠を連れてくるようにと命じた。吾子籠の証言では、 「伝(つて)に聞(うけたまは)る、纒向玉城宮御宇(まきむくたまきのみや に あめのした しらしし)天皇(すめらみこと)〔垂仁天皇〕の世(みよ)に太子(ひつぎのみこ)大足彦尊(おおたらしひこ の みこと)〔のちの景行天皇〕に科(おお)せて、倭の屯田を定めしむ。是の時に、勅旨(のたまふおほみこと)は、『凡(おほよ)そ倭の屯田は、毎(つね)に御宇(あめのした しら)す帝皇(すめらみこと)の屯田なり。其れ帝皇(みかど)の子(みこ)と雖(いへど)も、御宇(あめのした しら)すに非(あら)ずは、掌(つかさど)ること得(え)じ』とのたまひき。是を山守の地(ところ)と謂ふは、非(あら)ず」(伝えきくところでは、垂仁天皇の御世に、御子の景行天皇に仰せられて、倭の屯田を定められたといいます。このときの勅旨(ちょくし)は『倭の屯田は時の天皇のものである。帝の御子といっても、天皇の位になければ司どることはできない』と言われました。これを山守りの地というのは間違いです」)訳:宇治谷孟 ということであった。そして、大鷦鷯尊は、「状」(ことのかたち)を、吾子籠本人の口から額田大中彦皇子に伝えさせた。 大中彦皇子、更に如何にといふこと無し。乃ち其の悪(さがな)きを知(しろ)しめせけれども、赦(ゆる)して罪せず。(大中彦は言うべき言葉がなかった。〔大鷦鷯命は〕その良くないことをお知りになったが、許して罰せられなかった)訳:宇治谷孟 ところが、 然(しか)して後に大山守皇子(おほやまもり の みこ)、毎(つね)に先帝(さきのみかど)の廃(す)てて立てたまはざることを恨みて、重ねて是の怨(うらみ)有り(大山守皇子は先帝が太子にしてくださらなかったことを恨み、重ねてこの屯田のことで怨みを持った)訳:宇治谷孟 続けて、菟道稚郎子との皇位抗争劇へと発展してゆくのである。
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